■深く密かに信仰せよ



密教における主要な明王の一人、孔雀明王。


この旅行記を読むには、ちょっとだけ知っておいて欲しい事がある。
とりあえず、数回にわけて書くが、密教とは何か、という話。
あくまで旅行記なので、最低限の話にとどめるので、ちょっとだけお付き合いを。

密教とは何か。
これは厳密には仏教と言っていいのか微妙なものだったりする。
ここら辺は禅宗も同じで、そのルーツは仏陀にはない。
(この原稿で“仏陀”は仏教の開祖、サルヴァルータシッダを指す)

脱線になるが触れておくと、
禅宗の方は拳法でおなじみ少林寺にやって来た達磨和尚(ダルマさん)が
はじめた一種の肉体訓練法に過ぎず(そこから悟りをえる)、
そもそも中国発祥の宗教であり、どうやっても仏陀には繋がらない。
少林寺拳法を仏陀の教えに繋げるのは、
人類の想像力の限界を超えた能力が要求されよう。
ついでに、ダルマ(Dharma)、とは古代インド語のパーリ語で「悟り、真理」
と言った意味を持つので、この名は本名ではないだろう。

密教の方は6世紀〜7世紀、仏陀閣下が地球退去後(紀元前480年頃入滅済)、
実に1000年以上たってからインドで成立した宗教だ。
当然、なんぼ仏陀閣下とはいえ、死んで1000年も経ってから
新しい宗教を始めるのは不可能だから、これも厳密には仏教とは言い難い。

ついでに触れておくと、仏教は本来、個人の解脱、この世界、宇宙、次元から
オサラバするのを目的として、その手段を親切に皆に教えるものだった。
まあ、ちょっと派手な水泳教室、テンションの高い料理教室のようなものである。
あくまで個々人がガンバレ、仏陀応援してるから、という世界。

が、仏陀入滅後800年後ぐらい、そこから先に行く一派が登場する。
仏陀さんが多くの人々のためにやる、とか言ってたんだからさ、
俺らもそうしなきゃ、という考え方だ。
つまり自分だけでなく、一般大衆の皆さんも、
さあ、ごいっしょに解脱しましょう、といった方向性となる。
ここから念仏を唱えて皆で幸せになりましょう、
といった方向性が生まれはじめ、
仏教はようやくテンションの高い料理教室を脱っし、
宗教としての体裁を整えて行くことになる。

個人の解脱を目指す連中にとって、重要なのは経典、教えであったが、
この“一般大衆向け”の仏教には、人々を集める象徴が必要だった。
ここから、仏陀を神聖視しはじめ、仏像が造られ、
それを崇拝することで、いつの間にやら現世利益の追求、
神様、仏様、私を幸せにしてくださいな、という、よくよく考えると、
仏陀の教えとは何の関係もない方向性に仏教は向かうことになる。
これが、大乗仏教(マハーヤーナ)であり、
それまでの個人の解脱を目指していたのが小乗仏教(ヒーナヤーナ)となる。

密教は大雑把に言うと、インドに古くからある土着宗教と、
当時インドで大きく発展しつつあった大乗仏教が勢い余って合体してしまった、
とでもいうべき宗教で、そもそも、その始祖を定めない。
仏陀が始めた宗教なんて一言も言っておらず、
一種の太陽神ともいえる大日如来を崇拝する宗教である。

大乗仏教の流れに乗った密教だったが、
これにはインドの土着宗教らしい特徴がいくつかあった。
日本の密教は空海が始めた真言宗とほぼイコールだが(完全にイコールではない)、
真言宗の“真言”は一種の呪文である、いわゆるマントラを意味する。

密教にはさまざまな仏(明王)がおり、伝承者はその守護を受ける。
そして、それぞれの仏の力を借りるのに、呼び出しの呪文とポーズがあり、
呪文に当たるのが、真言であり、ポーズにあたるのが指で形を作る印である。

ここら辺は、密教の形になる以前のインド宗教が日本に流れ込んでいた段階で、
その影響下で生まれた山岳宗教、修験道、山伏たちも同じような事をやる。
そして、その修験道の影響下にいる忍者の皆さんも、指で印を結び、
ニンニンでござる、といった真言を唱える事になったわけだ。

そんなわけで、密教は、ステキ魔法宗教、という面を持つ。
持つどころか、この点において、平安期の貴族社会で爆発的なブームとなる。
このブームには天皇まで乗っかってしまい、遣唐使で長安に行って、
帰ってきてもまだ無名に近い存在だった空海が、
あれだけのスターダムにのし上る原動力となってゆく。

…長くなったから、今回の密教の話はここまで。

最後にオマケをやっておしまいとしましょう。

NEXT