■アーリントンへの道
さて、やって来ましたアーリントン墓地。
でもって、てっきり正面にみえてるデラックスな建造物が
墓地の入り口だと思ってたんですが、
あれは軍属女性のための記念施設(Women
in military service
memorial)という、
この墓地に星の数ほどある記念施設の一つなのでした。
実際の入り口はこの先、左側になります。
(入るだけなら、あの記念施設の左右からも墓地には入れるが)
その上、丘の上に建ってるこれまたローマ風の建物は、
この墓地の象徴ともいえるアーリントン ハウスで、
南北戦争で南軍を率いたアメリカ最強将軍、リーの家だった場所です。
ただし、これの“ローマ風”の微妙な貧乏臭さが最終日に判明します(笑)。
なんで北軍の首都に南軍の司令官、リー将軍の家があるねん、というと、
彼は本来、アメリカ陸軍で最も有能で人望があった人物であり、
もともとはワシントンD.C.在住の人だったからです。
が、5日目の旅行記で見ることになるように、
リー将軍はお隣のヴァージニア州の出身でした。
でもって南北戦争開戦直前にヴァージニアが南軍についてしまったため、
リンカーンからの北軍司令官任命をリーは拒否、
ワシントンD.C.から出奔して南軍に身を投じるのです。
旅行記の最初にも書いたように、アメリカの州の独立性は半端じゃなく、
当時の人々はアメリカ合衆国というよりも、
その出身州の方に強い帰属意識を持っていたのでしょう。
そして、あれだけの国力の差をつけられていた南軍を率いて、
はるかに強力だった北軍を4年近く苦しめる事になります。
でもって南北戦争中、北軍側がこの土地の資産税を
払ってちょうだい、と請求したところ、
南軍の司令官たるリー将軍側は、当然これを拒否し、
(前線にいるリー将軍に納税通知が届くはずはなく、拒否したのは奥さんらしい)
その結果、税金未納で没収されたのがあの岡の周辺一帯となります。
でもって、南北戦争の戦死者、特に身元不明の兵士たちの処置に困っていた北軍が
その墓地として、憎き南軍のリー将軍の家だった土地を使ったれ、と
ここに埋葬を始めたのが、アーリントン墓地の設立の由来らしいです。
(先に書いたようにワシントンD.C.は最前線に位置するので周囲での戦闘は多かった)
ちなみに、南北戦争(Civil
war)は日本の幕末と重なっています。
この戦争は1861〜1865年の間行われており、明治元年が1868年ですから、
まさに日本の幕末の間中、アメリカは凄惨としか言いようが無い
壮絶な内戦を4年近く続けていたわけです。
ペリーが来たあと、幕末ぜよ、幕末でごわす、という時期に、
イギリスとフランスばかりが登場して、
アメリカが舞台から消えてしまうのはこのためです。
ちなみに南北戦争はアメリカの内戦でしょ、くらいに考えられがちですが、
戦争がもたらした死者、不明者、経済的損失では、
おそらく未だにアメリカ史上最悪だったりします。
その戦争期間は実に4年を超え、
両軍の戦死者(民間人含む)は62万人を超えると見られています。
アメリカが行なった戦争の中で死者数としてこれは最大で、
(第一大戦が約11万6000人、第二次大戦が約40万5000人。ベトナムは約58000人)
アメリカ人が、単にあの戦争(The
war)といった場合、
両大戦ではなく、南北戦争の事が結構あるので要注意です。
で、上の道路の途中から左側に入る通路が正門というか、
受付部、ヴィジターセンターの入り口になってます。
ここで7時閉園の文字を発見、あれ、時間制限あるのか、とあせる。
実はすでに午後5時すぎ、あと2時間弱しかありませぬ。
ついでに、写真のようにここ、中国系の観光客の人がやけに多かったです。
…なんで?
ちなみにアーリントン墓地は国防省の陸軍局の管轄です。
(Department
of
army/このDepartmentは部局の意味。省ではないから要注意。
過去から現在まで、アメリカに陸軍省なる役所が存在した事は一度も無い)
おそらく先に書いたように、北軍の陸軍がここに墓地を造ったのがルーツだからでしょうが、
空軍、海軍、海兵隊、そして沿岸警備隊の墓地でもあるわけです。
ただし、これの入居基準(?)は、どうもよくわからない面がありにけり。
戦死者に限らず、一定基準を満たした軍人なら基本的に誰でも入れる、
という事らしいのですが、一定基準の内容がよくわからず。
おそらく勤続年数、最終階級などが関係するのだと思いますが。
さらにここの場合、大統領も入れます。
全軍の総司令官だから、という理屈だそうですが、
現状はタフト大統領とケネディ大統領の二人だけが入ってます。
ケネディは即死の暗殺ですから、本人の意思ではなく、
周囲が勝手にここに埋めちゃったんだと思いますが…
で、ここまでは、まあ、わかる。
でもね、ケネディ大統領の場合、奥さんはもちろん、
死亡したケネディ一兄弟の全員がここに入ってます。
大統領以外は、どう考えても資格がないはずですが…。
さらに言うと、スペースシャトルの事故で無くなった乗務員なども
ここに葬られてるそうで、
どうも国になんらかの貢献をし、国防省の担当部門が
埋葬を許可さえすれば、ここに入る事が可能のようですね。
さて、これがその受付部門。
キレイな建物ですから、どうも近年、造られたもののようです。
中途半端にローマ風の支柱、中途半端に南部のコロニアル(植民地)風な全体のデザインが、
どういった皆さんがここを運営してるかを象徴してますね(笑)。
中はこんな感じで非常に近代的な印象の建物。
平日の午後遅くですが、結構人は居ました。
で、この受付カウンターで園内地図がもらえるので忘れずにもらいましょう。
園内には案内図の類がほとんど無いので(一箇所でしか見なかった)、
これ無しでは、まず目的にたどり着くのは不可能です(笑)。
ついでに、ここのパソコンで、名前を入れて、
墓所がどこにあるか検索できるようになってます。
が、念のため確認しておこう、と使ってみたものの、
どうも使い方がよくわからず、該当なし、ばかりになってしまいます。
まあ、いいか、とそれで諦めてしまったのですが、
これが悲劇の始まりでした(笑)。
さて、ここに来た目的はただ一つ。
エネルギー機動理論を造り上げ、さらにOODAループを生み出した、
あの変態天才オヤジ、ジョン・ボイド閣下の墓参りです。
F-22の道の連載では、いろいろお世話になったので、
近所まで来た以上、あいさつぐらいはしておこう、と。
ちなみに、こんな施設にまでオミヤゲの売店が(笑)。
まあ、半分は観光地ですしねえ。
さらにこの裏には前回紹介した巡回バスのチケット売り場があり、
アーリントンすげえ、アメリカの墓所は底が知れぬ、と思いました。
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