■ラングレーとカーチスと
「これでジェット機の部屋の紹介、終わりだって」
「ええー、オレのヒョウ柄の救命具、無視かよ」
「いやそれ、アナーキャーが遠目に見間違えただけだから。
それ、普通のベトナム迷彩だから」
「現実は厳しいねえ」
で、その隣は「初期の飛行技術(Eary
flight)」の部屋。
ライト兄弟が初飛行する1903年を挟んで
10年前後の時代の品々を集めた展示でした。
ここは1913年ごろに行なわれた架空の航空展示会場、
という妙に凝った演出が行なわれており、
全体的に懐古趣味的な展示室となってます。
どうも新しく展示を作り直した部屋のようで、入り口の各国語表示は消え、
当然、日本語なんかどこにも残ってないですね(笑)。
この展示、前に来た時もあったかどうか、どうも記憶がはっきりせず…。
ちなみに良く見ると看板にラングレー(Samuel
P.
Langley)の名前が。
スミソニアン協会の3代目会長にして、スミソニアンの航空研究部門の設立者でもあり、
さらにライト兄弟が初飛行するまで最大のライバルだった人がこのラングレーです。
ラングレーはライト兄弟が“人が乗った動力飛行”に初めて成功するまで、
アメリカ航空界における最大の権威でした。
実際“人が乗った動力飛行”ではライト兄弟に先を越されましたが、
無人の動力飛行では、彼が世界初の飛行を行なっています。
1896年に蒸気エンジン(!)による無人機、
エアロドローム5号(Aerodrome
No.5)を1200m近く飛ばすのに成功、
これは動力飛行としては人類初のものでした。
後には6号が1500mまで飛び、その記録を塗り替えています。
(ちなみにAerodromeは直訳するなら滑空場とか飛行施設になるが…)
彼は、これを基に戦争省とスミソニアン協会から
資金援助を受け、有人かつ操縦が可能な機体の開発に邁進するわけです。
が、、プロペラの効率の悪さや機体設計の不備などから、
最後までまともに飛ぶことができず、
最終的にライト兄弟の後塵を拝することになるのでした。
当時のエンジンの数々の展示。
いずれ名のあるエンジンと思いますが、さすがに全部紹介しても
誰も読まないし、何より私が大変なので、この写真だけ載せておきます…。
カーチスD型 ヘッドレス プッシャー。
航空機を商売として始めた後のライト兄弟の
最大のライバルが、このカーチスでした。
この機体、アメリカ空軍博物館でレプリカを見ましたが、
この展示もレプリカらしいです。
自動車のようなハンドルにも注目。
ライト兄弟の最大のライバル、カーチスが開発した初期のヒット作で、
1911年から販売が開始された機体だとか。
Headless
pusher は首なし推力機、といった意味ですが、
英語でHeadless
は首無し幽霊を指すことが多く、
墜落事故が日常茶飯事の当時として、あまり縁起のいい名前ではないような。
名前の通り、プロペラは機体を牽引するのではなく、
後ろ向きについていて、機体を推す形になっており、正面からは見えません。
そんなカーチスは元々バイク屋さんでした。
が、街のバイクショップといったレベルではなく、自らエンジンまで開発、
それを搭載したバイクで当時のスピード記録まで樹立しており、
航空業界に参入する前から、それなりの有名人だったようです。
ちなみに、バイク屋の前は
ライト兄弟と同業の自転車屋を経営してたそうなので、
何か自転車屋さんが飛行機屋に向いてる理由とかがあるんでしょうかね。
後に特許紛争をめぐってライト兄弟最大の敵になるカーチスですが、
1929年の大恐慌の後遺症から、ライト兄弟の会社とカーチスの会社は合併され、
カーチス・ライト社となってしまうのは歴史の皮肉でしょうか。
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