■リー将軍



中はこんな感じで、ロバート・E・リー将軍の展示となっております。

南北戦争でリンカーンから北軍司令官につくよう要請されながら、
生まれ故郷のヴァージニア州が南軍に付いたのを見て
そちらに走ったのがこの人です。

その結果、南北戦争中は南軍司令官を務め、
絶対的に不利だった南軍があれだけの抵抗を示した原動力になります。
ただし彼の場合、その能力の大半は人心掌握と部下の使い方のうまさで、
軍事的な天才でもないですし、作戦立案能力はやや凡庸でしょう。

それでも、当時のアメリカ大陸では最高に有能な軍人の一人であり、
南軍の人間とはいえ、現在でもその人気は高いものがあるようです。



リー閣下の彫像。
なんとなく感じの良さそうなオジサマ、という感じでしょうか。
いいとこの坊ちゃんですしね。



かなり古いタイプのコルトのリボルバー式拳銃。

リーの名前が刻んであり、士官学校を出た時に記念品として贈られたものだとか。
ただし、誰が贈ったか書いてないので、学校からの記念品なのか、
裕福な家族からのプレゼントなのかは不明。

ついでに、ペンチみたいのがありますが、
これは当時の拳銃セットの標準装備、弾の鋳型(bullet mold)ですね。
タイヤキの型のようなもので、閉じた状態で中央の二つの穴に溶かした鉛を流し込み、
冷えた後にパカッと開くと鋳型によって弾が出来てるわけです。
融点の低い鉛(327.5度)の場合、フイゴ無しの普通の火でも十分に溶かす事が可能で、
鉛の塊を買ってくれば、自分で弾を製造する事が出来たのでした。
当然、拾った弾の再利用も可能です(笑)。

が、弾は出来ても薬莢はどうするの、と思っちゃいますが、
この時代の拳銃は薬莢がなく、火縄銃のように火薬粉を使います。
このケース内で空になってる一番下の空間は、
火薬粉入れで本来はここにケチャップ容器のような火薬粉入れが入ってました。

このため、弾はシリンダーの穴の前から押し込むのですが、
まず最初に火薬粉を振り入れ、
それがこぼれないように紙かコルクなのどのシートを押し込み、
最後に自分で造った鉛玉を押し込む、という手順になってました。

なので、この時代の拳銃の射撃には相当な手間がかかっていたはずです。



こちらは名家と言っていいリー将軍一族の家系図。
右上の大きめの絵はワシントン大統領一家で、
左端の子がこの家を建てたパーク・カスティス、後のジョージ・ワシントン2号。

右下の写真は奴隷解放の時にこの屋敷に居た黒人の人たちらしいです。



で、こちらが南北戦争時のリー将軍。
なにせ貧乏で、まともな軍服が無かった事で知られる南軍ですが、
さすがに将軍クラスとなると、キチンと制服があったようです。



こちらはアメリカではよく見る南北戦争停戦調印式の絵。
南軍代表のリー(左で座ってる)と北軍代表のグラント(右で座ってる)が
それぞれ停戦文書にサインをしています。

右側、北軍関係者が不安気にリーを見てるのは、
リーのイスに仕掛けたブーブークッションが不発だったからではなく、
グラントも含めてほとんどが元はリーに育てられた将軍たちだったからで、
元恩師の現在の立場に同情してるわけです。

この時使われたイスとテーブルが、
例のアメリカ史博物館で展示されていたものなのですが、
あれ、よく見るとリーは専用のテーブルを使っており、
これは展示にありませんでした。
それ以外、両者のイスとグラントの使ったテーブルはあったのに。

ついでに、この時北軍の代表だったグラントは
後に大統領まで登りつめますが、
あまりに金に汚く、未だに歴代最低大統領の一人に数えられてます(笑)。

ただし、日本はこのグラントに縁が深く、
何度もこの記事で引用してる
明治の岩倉使節団を迎えた大統領がこのグラントですし、
引退後に日本を訪問、最初の国賓扱いの人物となったのも彼です。
その結果が、現在上野公園に残るグラントの碑なのでした。


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