■アメリカン映画とアニメ

さて、今回はアメリカンな映画の世界の端っこのほうの話だ。

「さいですか」

例の映画館を寄付したワーナーブラザース社の展示の中から、
あの会社を創業した世界四大兄弟の一つ、ワーナー兄弟に関するものを見て行こう。
ちなみの残り三兄弟は、ライト兄弟、マリオ兄弟、ブルース・ブラザースだぞ。

「最後のはホントの兄弟じゃないし、そもそもユニヴァーサル映画の配給ジャン」

細かいツッコミありがとう。
とりあえず、ワーナー兄弟の会社だけにその写真も展示されてたんだ。



「え?こんなに居るの?」

いや、実際に会社を興したのはこの内の4人だ。
さらに言えば右から3人目はお父さんだったりする。
そして左から2人目以外の兄弟4人が会社を設立するんだ。
ついでに実際はあと3人の姉妹が居て、
どうも8人兄弟姉妹らしい。

とりあえず、サンダーバードのトレーシー一家、
ウルトラ兄弟、ジャクソン5と並んで、
これだけの人数の兄弟が活躍した貴重な例だろう。

「現実とフィクションはキチンと区別しないと社会生活に影響が出るよ」

で、ちょっと面白かったのが、これ。
兄弟の中で映画制作会社部門の責任者となったジャックの
住所録&電話帳が展示されていたんだ。



この手帳、例によって誰も見てなかったが、
よく見れば意外な人物が二人、同じページに名を載せてるんだ。

「おお、ウォルト・ディズニーと…サルバドール ダリ?ダリってあの画家の?」

同姓同名の可能性はゼロではないが、多分本人だろう。

「あの人、スペイン人じゃなかったっけ?しかも画家でしょ?
別人じゃないの。」

ダリは第二次大戦中はアメリカに移住してしており、
1942年に出版された彼の自伝、
サルバドール・ダリの秘密生活(The Secret Life of Salvador Dalí)
をワーナー・ブラザースで映画化する、という話が一時進んでいたんだよ。

「そんな映画あったっけ?」

いや、最終的にはダリの気まぐれなどによってお流れになるんだ。
が、この手帳を見ることで、当時のワーブラザースのボス、
ジャックまでがその計画に関係していた、とわかり、
思った以上にワーナーはやる気だったんだ、というのがわかる。
これはちょっと意外で驚いたのさ。

「へー」

でもって、さらに謎なのがウォルト・ディズニーだ。

「なんで?同じアメリカ人でしょ?」

ディズニーのアニメは当時の人気映画なんだけど、
その配給はRKOラジオピクチャーズで、
ワーナーにとっては最大の敵の一つなんだ。
先にもチラッと登場したバックス バニーなどの
キャラクターは、そのウォルト・ディズニーの
アニメ映画に対抗するために産み出されたキャラなのさ。

「でも、まあ同じアメリカの映画会社のボスどうしなんだし、
知り合いだったとしても不思議はないぜ」

まあね。もちろん、その通りだ。
が、ここでダリの名前が問題になる。
彼がアメリカに居たのは1942〜1948年までなんだ。
特に映画の交渉を行なっていたのは1944年ごろまでだ。
つまり、この住所録&電話帳はそのころのものと思われる。

「だから?」

これ、ディズニーの会社が一番ピンチだった時期なんだよ。

まず1937年、第二次世界大戦前に
最初の長編アニメ、白雪姫と7人の小人を公開して、
大ヒットを飛ばしたディズニーは、その後、長編アニメを連発してた。
で、次回作のピノキオまではまだよかったが、
その翌年1940年のクリスマス映画、ある意味で伝説のアニメ、
ファンタジアが大赤字となってしまうのさ。

「そんなに人気が無かったの?」

実際、パッとしなかったんだけど、それ以上に問題だったのが、
配給会社のRKO ラジオピクチャーズが開発した上映装置だったんだ。

観た人は知ってると思うが、ファンタジアはクラシック音楽にあわせて展開する
音楽映像のハシリで、このため上映には当時の映画館の
貧弱な音響システムではどうしようもなかった。
よって、専用の装置が必要だったのだが、
これが当時の価格で劇場ごとに8万5000ドルかかったとされ、
このため、当時アメリカで極めて少ない、たった13館でのみの上映となっている。
この結果、最終的な上映配収は140万ドルを切っていたとされるのさ。

「…それって設備代だけで110万ドル以上かかってるわけだから、
実質30万ドル以下の配収って事?」

そうなんだ。
当然、それは設備代だけで
230万ドル近かったと見られる映画制作費は含まれない。

「大赤字じゃないの」

その通り。
ただし、戦後のリバイバル上映などで、最終的には制作費を回収してるんだけど、
当時としては致命的な大赤字なんだ。
この結果、大予算の大作長編で勝負していたディズニーは180度方向転換、
安くて手軽な中篇お子様アニメの製作に走るのさ。
その結果生まれたのが1941年のダンボだ。

「人気作品じゃん」

その通りで、長編大作路線を捨て、予算も上映時間も従来の約半分という
お手軽アニメへの路線変更は大ヒットとなった。
(ダンボは上映70分以下、予算は95万ドル前後で配収160万ドル以上)

ちなみに、日本の真珠湾攻撃の時に上映されてたヒット作がダンボだったので、
かつてのアメリカでは、太平洋戦争と聞いて
ダンボを連想する人も多かったんだ。
スピルバーグ監督の幻の怪作映画、三船敏郎のバンザイで知られる
「1941」で変な将軍がダンボを上映する映画館に居るのは、
そういった時代背景があるためだよ。

「へー」

ところが、まだ借金返済にはほど遠い。
さらに悪い事に次の年、1942年のバンビがこれまたパッとしなかった。
さらにはここまで戦争が進むと、アメリカ以外の市場に映画は売れず、
どうやってもファンタジアの借金は返せそうに無い。

「絶望的だね」

これが1942〜1943年ごろのディズニーの状況で、
その時代のワーナーの社長の電話帳に、
当時、映画製作の交渉を行なっていたダリと一緒に名前が出てるとなると…。

「ああ、身売りの可能性?」

あくまで推測だけどね。
そういった可能性もあっても不思議はないのさ。

「でも結局、ディズニーは存続するんでしょ」

まあね。
そこら辺りは、かつて空軍博物館の旅行記の時に少し説明したけど、
彼らは軍の教育、宣伝映画の製作を請け負って
経営危機を乗り切って行くんだ。
1942年、バンビの製作が終わった後、600人前後いた
アニメスタジオのスタッフのうち、
9割が軍の国策映画の製作に関わっていたと言われている。

「ああ、あったねそんな話。
ドイツの戦闘機にまで絵を描いてたんでしょ」

いや、ガーランドの機体に描かれたミッキーマウスは
ドイツ側の無断使用で、ディズニーの関知しないところだ。
あれはゲーリングへの強烈な皮肉じゃないかなあ。
といったところで、今回はここまで。


BACK