そこは「賢治の玄米茶」でよくない?と思いました。



北側に出ました。こっちは結構賑やかだったので、この辺りが旧市街の中心ですかね。でもって何か左手にいい感じの建物が見える。



岩手銀行赤レンガ館だとか。盛岡銀行(現岩手銀行)の旧本店だそうな。1911(明治44)年に建てられた建物で、国の重要文化財。しかも設計は東京駅丸の内側駅舎の辰野金吾とその弟子、葛西萬治らしい。でもって葛西萬治が盛岡出身とここの解説で初めて知りました。

ちなみにこのコンビの設計で重文指定を受けているのはこの建物と東京駅のみだと思います。時間的にはギリギリ立ち寄れそう。当然、行って見ましょう。 



こちらが入り口。雰囲気ありますね。盛岡市も戦災を受けずに結構な歴史的な建物が残っているようです。この建物、てっきり盛岡市か岩手県が譲り受けて文化財として公開してるのかと思ったら、今でも岩手銀行の所有で、その管理下で公開されているようです。素敵。

ちなみに盛岡は大戦中二度の空襲を受けたという記述を散見しますが根本的な誤解、誤認、間違い、ハッキリ言ってしまえば大いなる嘘が含まれると思われるので要注意。恐らく一度もまともな空襲は受けていません。関係者の皆さん、ホントにちゃんと調べた?まず総務省などの記録で第一回の空襲があったとされる1945年の3月10日。B-29が一機だけ深夜2時ごろ飛来、盛岡駅周辺に焼夷弾を投下、火災が起きて3名(4名とするものもあり)の死者を出した、というもの。これはほぼ嘘でしょう。

そもそも東京大空襲の日になんで一機だけ盛岡にB-29を派遣させるの?というか一機だけでB-29が爆撃に出たなんて記録は見たことがありませぬ(原爆投下の時ですら複数機で飛んでいる)。そもそも深夜に探照灯もない空を一機で飛ぶ機体が見えるのか、さらにそれがB-29だとなぜ判るのか。実際、アメリカ側の第21(XXI)航空軍による3月9日(日本到着は10日深夜)の出撃記録は東京空襲(Meetinghouse No.2)に出た第73、313、314航空団の325機のみです。他には一切の記述がありません(アメリカ陸軍航空軍の公式記録 Summary of XXI bomcom missionsによる)。

恐らく最初の空襲は存在しなかったと見て良いと思われます。考えられる可能性としては以前からB-29が何度か偵察目的で単機で侵入しているのが目撃されていた(釜石製鉄所は戦略的目標だったので、一帯を偵察をしていた可能性は高い。偵察任務は目立たぬよう単機で飛ぶことがあった。ただし米軍側に偵察で飛んだ機体の詳細な記録は無く、これは確認できない)、でもってこの日、駅周辺で大規模な火事があった。だったらこの火事はB-29のせいにするのが一番無難だと判断された、同じ日に東京でも大空襲があったらしいし、といった辺りが真相じゃないかなあ、と(実際、ほぼ一カ月後の4月17日には久慈で大規模火災が発生し、千戸が焼失しているが新聞では火災原因に関し何ら言及が無い。放火じゃないかなあ)。

一方、大戦末期、8月10日に盛岡駅周辺が空母艦載機による攻撃を受けたとされるものはアメリカ側の記録(Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 55, Security-Classified Carrier-Based Navy and Marine Corps Aircraft Action Reports, 1944-1945 )からも確認できます。この日は英米の連合艦隊による二度目の釜石艦砲射撃があった日で、その攻撃を行った第38機動部隊(Task Force 38)配下の空母、USSハンコックからF4-Uコルセア戦闘機が11機、TBMアヴェンジャー雷撃機11機が出撃しています(ただし1機は無線故障と思われる理由で目標到達前に脱落)。本来は雷撃機であるアヴェンジャーですが、この時期は日本側にまともに運用できる艦艇が既に無く、このため魚雷格納庫に爆弾&翼下にロケット弾を積んで地上攻撃に使われていました。ちなみにこの作戦中、松島基地付近でアヴェンジャー1機が対空砲火で失われています。

ただしこの部隊の本来の任務は仙台地区一帯の航空基地への攻撃でした。その主要目標だった松島基地への攻撃終了後、爆弾とロケット弾を切らしたと思われるアヴェンジャー部隊は帰還。その護衛に3機を割き(報告書だと2機だが数が合わない)、残ったF4-Uの8機がさらなる目標を求めて北上(機関車と車庫を攻撃しているので鉄道線路を見ながらの地文航法で北に飛んだのだろう。アヴェンジャー帰ってしまった以上、単座のコルセアでは敵地で複雑な航法は取れないはず)を開始します。一関を経由し盛岡南で未確認の航空基地を発見、これも攻撃したと述べており、恐らく特攻機の秘匿基地だった江刺市の後藤野基地でしょう。その後、海岸沿いに出て山田湾の山田水上機基地を攻撃、さらに盛岡駅周辺の操車場を叩いたのです。

ある意味では巻き沿いを食ったとも言えるのがこの盛岡空襲で(そもそも松島基地に十分な目標がありそこでロケット弾と爆弾を使い切って居ればこの空襲は起きなかったのだ)、そいうった意味では運が悪かったとも言えます。8機のコルセアだけとはいえ、この時期のアメリカ海軍のロケット弾なら、この機数で重巡洋艦を沈められたと思われ、それなりの火力を食らったのは事実でしょう。ただし主な攻撃は駅周辺に限られており、盛岡の街の構造を考えると、やはり損失は限られたものだったと思われます

この辺りを考慮すると、盛岡市街は空襲されなかった都市の一つに加えていいんじゃないでしょうか。少なくとも都市破壊を目的とした戦略爆撃は一度も受けていません。東北の北側三県で本格的な空襲を受けたのは青森市だけと考えていい気がします。



そんな事を考えながら中に入る。あ、これ素敵と思う。ちなみに無料で見れる部分と有料の部分があり、この一帯は無料部分です。


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