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2025年10月17日、約40年ぶりに戦場ヶ原を歩いて来ました。がん手術から復帰したダメ人間兼コックが、オレの無敵散歩能力復活を見よ、と言うので高低差が無く、それでいてちょっとした山歩きの雰囲気があるこの地をその舞台に選んだのです。時期的に紅葉も狙えるかも、という期待もありましたし。 ちなみに一帯は何度も車で通過したことがあるんですが、戦場ヶ原を歩いたのは中学校の修学旅行が最後でした。一定規模の湿原ですが半ば乾燥しつつある上に戦前から大分開発の手が入っている事もあってイマイチ興味が湧かなかったのです。さらに南北で2q、東西では1km程度の広さ、しかもその端っこを歩くだけで、湿原の中には入れない等、便の良い観光地のハイキングコースだが面白くは無さそう、という印象が強く正直、わざわざ歩いて見ようとは思わなかったからです。 ですが行って見るとそれなりに面白く、本格的に歩くと三時間近くかかる事もあって、単なるハイキングとも違う世界が味わえました。とりあえず記事に入る前に、ざっとその説明をやっちゃいましょう。 日光山系のど真ん中、海抜1400mという高地にあるのが戦場ヶ原。関東より東の最高峰、日光宇白根山が西に、日光山系と男体山が東に在って、その間に挟まれるようにある湿原です。その位置から判るように、中禅寺湖と同じ男体山の噴火で川が堰き止められて出来たもの。典型的な火山系の湿原でそういった意味では尾瀬と同じですが、規模的には半分以下です。さらに乾燥が進んでおり、一帯は半ば平原に近いものになっています。その辺りの地理的な条件をまずは見てしまいましょう。 ![]() ■国土地理院地図に情報を追記して使用 中禅寺湖の北、男体山の西の麓に広がるのが戦場ヶ原。その西側には日光白根山もありにけり。湯川はこの一帯を南北に流れ、竜頭の滝を経由して中禅寺湖に流れ込んでいます。見れば判るように周囲はすでに乾燥して広大な平原になっており、戦場ヶ原と、その西にある小さな湿原、小田代原だけが残っている状態です。東側の平野部は開拓地として農場化され、さらに一帯に在った赤沼は戦後の台風で埋まってしまい、あまり自然保護の観点からは褒められた土地では無いでしょう。東の開拓地は湿原では無かった土地ですが、それに併せて一帯の湿原への植林、治水工事が行われたため、その乾燥を加速させる要因となりました。 戦場ヶ原の東を切断するように走るのが国道120号で、この東側にはかつて赤沼があったのですが、1949(昭和24)年のキティ台風による土砂崩れで埋まってしまっています。ただし台風の降雨というよりは当時の乱開発で引き起こされた土砂崩れの可能性が高く、これもほぼ人為的な乾燥でしょう。ちなみに国道120号はこの先で群馬側に抜ける金精(こんせい)峠に繋がっており、恐らく古くからの街道筋だったと思われますが詳細は不明。ちなみにこの国道、日本ロマンチック街道という銀河系最強に頭の弱そうな名を名乗っています。植民地じゃないんだからさ、日本アルプスとか日本ロマンチック街道とか、ホント、止めようよもう。 ![]() 2024年に登った男体山の山頂付近から戦場ヶ原が見えましたが、実はこれ北側のみです。左手尾根の向こうに南側の湿原が隠れています。 ![]() 小田代原も辛うじて見えるだけ。逆に戦場ヶ原方面からは男体山、全景が良く見えるんですが、山頂部はこのように隠れてしまっており、実はほとんど見えてないんですよ。 最後に余談。この地は日光山(二荒山で男体山の事)と赤城山の神さんが一帯の領有をめぐってケンカして、その決戦の地となったゆえに「戦場ヶ原」という話、いわゆる由来譚を、現地一帯で血反吐吐くほど叩きこまれます。ただしその引用元とされる「戦場ヶ原神戦譚」なる史料、書物、伝承は筆者の知る限り、この太陽系の中に実在しません。無いんですよ、そんな話。恐らく江戸期、場合によっては明治以降に観光客向けに造られた、いかにもそれっぽくて誰もが鵜呑みにしちゃう話の一つでしょう。すなわちざっと二百年近く、誰もちゃんと確認しなかったんか、というお話です。 ただし男体山と赤城山の神様がその縄張りを巡って大戦争になった話は古くからありました。問題はその舞台がここではない、という事です。この辺りは南北朝時代の「神道集」及び室町期にまとめられた「日光山縁起」に出てきます(奥付の日付を信じるなら1384年(至徳元年)の成立)。特に日光山(二荒山)の寺社仏閣の成立をまとめた「日光山縁起」の下巻に詳しく、弓の名人、小野猿丸(姿が醜いので猿と呼ばれた系伝説の一つ。その元祖は多分、猿田彦。秀吉の猿伝説もその手の話に入るだろう。筆者の知る限り、同時代の資料で秀吉を猿と呼ぶものは無い)が日光の神さんに召され(猿丸は女体山の神となった女性の孫だった)、赤城大明神(赤城山を神格化したもの)との戦争に問答無用で巻き込まれる迷惑なお話です(ちなみに戦と言えばこの人、鹿島大明神による日光権現へのアドバイスの結果として巻き込まれた)。ちなみに召された翌日がもう決戦の日だったんですが、猿丸はチョー強いワンマンアーミーだったため、あっさり赤城大明神に勝利してしまうのです。ただしその決戦の場所は「海上」であり「湖水のうへ」だったとあるので、明らかに中禅寺湖です。ここじゃないんですよ。 ちなみに江戸期に林羅山が転記した書が残る「二荒山神記」という由来も詳細も不明の怪しい書もあり、こちらにも同じような話が出て来ます。猿丸は猿麻呂とちょっと高級な名になっていますが(まる、まろは同じ名で当て字が異なるだけだろう)基本的な話の構成は同じで、恐らく「日光山縁起」からの引用でしょう。ただしこちらだと決戦の地は湖の西にある沼の森林地帯とされます。すなわち西の湖周辺であり、赤城山の方から敵が来たという事ですね。すなわちこれも戦場ヶ原の名はどこにもありませぬ。 せんじょうがはら、は本来、千丈ヶ原、とにかく広い場所の意味でしょう。仙丈ヶ岳とか千畳原とか、よく見られる「千丈の意味だったせんじょう」への当て字地名の一種だと思います。なにせ字を読めないのが普通の時代、音が先に在り、明治以降の測量、土地の国有化などで、よく判らんまま当て字とした地名は日本中のどこにもありますからね。なんでよりによって「戦場」なのかは理解に苦しみますが、いずれにせよここで神様が戦ったなどという話は、銀河中を探しても存在しないと思われます。この手のもっともらしい話って、誰も確認しない事が多く、何も考えずに引用、流用を繰り返した結果、こういった状況になるのもまた珍しい事では無いですが。 といった感じで、さっそく旅行記に入って行きませう。 |