では切通を越えて、余呉湖畔に向かいましょう。でもって結構な数の石ころがあり、砦構造の跡かな、と思ってたんですが…



いや、違うなこれ。以後も道幅が広く、石ころが多数見られるまま。こんな人気のない登山路にしては整備がされ過ぎですから、おそらく江戸期の街道跡でしょう、これ。ええええ、こんな場所に、と驚く。この先の琵琶湖岸の港、飯浦はかなり不便な場所にあるので、まさかこれほどの街道が通って居るとは思っておらず、狼狽する。そして一気に全てを理解する。そうか、余呉湖の西側になぜ集落が集中しているのか、そして羽柴軍が賤ケ岳に拘ったのかは、この街道、琵琶湖岸の港に出れる道があったからなのだ。



人類の120%が興味が無い話と思われますが、筆者的にはかなりの衝撃の事実だったのでここでちょっと説明を。余呉湖の東側には北国街道が走っています。賤ヶ岳の合戦で負けた柴田勝家が造らせた、その本拠地である北の庄、福井まで続く街道ですね。京都、大津、草津、安土、長浜を経由して、すなわち琵琶湖岸を南から東にグルっと回り込んで約80qの行程でここに至ります。徒歩ではどんなに急いでも二日、普通なら三日の行程です。

対して余呉湖の北を経由して山を越えて琵琶湖岸に出てしまえば船で約70q、風にもよりますが朝に出ればその日の内に坂本、大津まで入れてしまったのです。よって琵琶湖岸と北国街道を結ぶ最短距離となる余呉湖畔は奈良時代の昔から重要な街道筋でした。ここまでは理解済み。そして最初に港が置かれたのが塩津で、これに至るのが権現峠でした。ちなみに塩津からは日本海の玄関口、敦賀に向かう街道があり、そういった意味でも交通の要衝でした。

余談ながら誰も指摘してませんが、琵琶湖南岸の草津は陸の津、すなわち往来拠点、大津は湖上の往来拠点、北岸の塩津はここから日本海に向かう、すなわち海までの交通拠点といった意味でしょう。よって群馬の超強力温泉集落、草津は、この一帯の「志賀」一族が入植したもので、それ以上の意味は無いと思います。

現在、鉄道からも道路からも不便な余呉湖の西岸部に集落が集中しているのは、この琵琶湖岸に至る街道が理由です。そこまでは筆者も理解していたのですが、権現通りの東で街道が分離、南の飯浦まで続いていたとは全く知りませんでした。その飯浦からは東の峠を越えれば木之本であり、すなわち北国街道に合流できます。よって賤ケ岳の砦はその街道を抑えるためのもの、という事に。えええええええええええええ、そうなの。となると先に見た門構造は恐らく街道の関所のような機能も持っていたはず。

…ええええええええええええ、そうなの?つまり賤ケ岳の砦は単なる物見峠ではなく、この飯浦〜木之本の裏街道を封じるためのものだったのか。やはり現地に来てみて初めて判る事は多いなあ、と痛感。ちなみに飯浦は山間の孤立した浜ですが、この飯浦の切通と、木之本に通じる東の峠道を越えればこれまた北国街道に抜ける事は可能なのです。すなわち羽柴軍としては東の北国街道本道だけでなく、この迂回路も警戒する必要があったわけです。



飯浦の重要性を全く知らなかった筆者は軽い衝撃を受けたまま、道を下ります。これ、賤ケ岳の合戦の重心点は思った以上に西側だった可能性が高いじゃん。

ちなみに余呉湖に至るまでも人工的な階段状の地形が見られましたが、これは例のヤツ、昭和期にはいってから植林のための造成でしょう。一帯は典型的な植林による杉林ですし。



間もなく余呉湖が見えて来ました。



湖畔に出る。ほぼ余呉湖の南端部に当たります。このまま街道があったと思われる西側の湖岸を北上して見ましょう。

この道路は前回の訪問時、車で湖岸を一周した時に走った道ですが、戦後になって開通し、本来の街道筋をかなり無視した場所を通っています。ついでに東岸を貫いて一周するまともな道は戦後になるまでありませんでした。あくまで西岸の道が主なのです。

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