では砦の中心部に向かいましょう。



かなり細長い平地が広がりますが、やはりここに千人は入らないと思うので、これが全てでは無いでしょう。



その端にはこの砦に入り、最後は戦死した中川清秀の墓があります。ただし建てられたのは17世紀、江戸期に入ってから。



この先に岩崎山の砦もあるのですが、とりあえず今回はここまでとして撤収します。賤ケ岳砦との位置関係は判ったし、予想以上に時間が掛かってしまっていますからね。すでに賤ケ岳離脱後、ほぼ1時間。当然、帰りもほぼ同じ時間が掛かる訳です。



砦一帯も道が広いのですが、これが当時からのものかは自信なし。ここは左側、すなわち街道側に土塁の跡が残っているのですが、余呉湖側には明確な防御構造は無し。やはりそうだよね、と筆者は考えたのですが、その話もまたいずれ。

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