タッカー '48(Tucker '48)。1948年型。

ボンネットのど真ん中に三個目のライトがある三眼自動車となっています。真ん中のライトはカーブを曲がる時、その先を照らすようハンドルと連動して動くようになっていました。そんなライト要るのかと思っちゃいますが、当時の道路はアメリカでも外灯なしが普通で、恐らく反射板のあるガードレールもありませんでした。その真っ暗闇の道路では意外に役に立ったと思われます。この辺りは外灯もガードレールもない恐怖の峠道を夜中に時速60qを走って鹿にガン飛ばされる脅威体験をすれば理解できると思います(経験者談。当然、道から飛び出したら数十メート下に落下して死ぬ)。

別命トーピードゥ、魚雷の愛称で知られる幻のアメリカ車であり全51台しか製造されていません(厳密には生産されたのは50台で、残ったパーツで組まれた1台が追加で存在する。さらに生産ライン上にあった一台がレストアされたがこれは数えないのが普通)。なのでレプリカかと思ったんですがホンモノでした。ちなみに製造番号1004号車、4番目に製造された車だと思われます。ちなみに日本には1020号車もあり、これは鹿児島の例のあの人、羽仁正次郎氏が所有しているため、一般人は見る事ができませぬ。とりあえず51台中2台が日本にあるのは確かです。ちなみに製造後に廃車となったのは1018、1023、1027、1042号の4台のみ、後はエンジンをキャデラック62の物に変更されてしまい、かなり状態の良くない1台がブラジルにあるんですが、それでも46台がかなり良いコンディションで現存します。実に9割の生存率。それだけ「伝説の一台」なんでしょうね。

一風変わった外観ですが、その構造もかなり特殊で水冷6気筒水平対向エンジンを後部に搭載したリアエンジン、リアドライブ(RR)構造、さらに四輪独立懸のサスペンションを採用しています(トヨタ博物館の解説ではヘリコプター用エンジンとされるが、それは設計の基になった空冷水平対向エンジンで、この車に搭載された段階ではほぼ別物の水冷エンジンとなっていた)。



横から見ても流麗でカッコいい車です。

この車を製造したのが、戦後に設立された独立系自動車製造会社、タッカーでした。コッポラ監督の映画「タッカー」で知られるあれですね。社長のプレストン・トーマス・タッカーはアメリカ人らしい野心的な投資家&発明家で、第二次大戦中は軽装甲車両や爆撃機の銃座の開発を行っていた人物です(ただし正式採用された製品は無い)。

戦後、自動車産業にその目を向けたタッカーが独自に開発(タッカー本人の設計ではなく外注だが)、販売を開始したのがこのタッカー48となります。既に見たように、大戦中は工場の多くを軍需製品に向けてたいた事もあり、戦後のビッグスリーによる新型車の登場は遅れていました。この結果、スチュードベーカーに続く戦後の新型車両として登場したのがこの車となります。ただし工場施設の取得、資金調達に関わる株式取引による訴訟などに巻き込まれて会社は破綻、その生産は速攻で挫折してしまい、幻の一台となってしまいました。

それでも、その先進的なデザインと構造で伝説的な車として語り継がれる事になり、今でも多くのファンが存在する一台となっています(この辺り、後に登場してこれまた速攻で消える独立系のアメリカ車、デロリアンに似た部分がある)。
 


カイザー・フレーザー(Kaiser Frazer)社のヘンリー J(Henry J)1951型。ちなみに生産開始は1950年。

フロント部、顔だけアメリカ車っぽいけど全体的に貧乏くさい感の拭えない車ですが、間違いなくアメリカ製です。これも戦後の混乱期に登場した自動車メーカーの一つ、カイザー・フレーザー 社のデビュー作となります。ちなみにこのカイザーはあのカイザー(笑)ですな。アメリカが戦争中に大量建造した週刊輸送船団ことリバティーシップ。その主要造船所となった7つの造船所を持つ男ことカイザー社のオーナー、ヘンリー・J・カイザーです。ちなみに現アメリカ海軍が運用する給油艦ヘンリー・J・カイザー級はこの人の名から取ったもので、一般の民間人、会社経営者がネームシップに採用された珍しい例となっています(ただし現状、同型艦が存在しない単艦だけど)。

ちなみに会社名の後半になっているフレーザーはクライスラーの経営陣の一人だった人物で同社の主力となったプリマスの製造に関わっていました。このプリマスの大ヒットでクライスラーはアメリカ三大自動車メーカーの一角に食い込むのです。以後、もう一つの独立系自動車会社、グラハム・ペイジ社の経営者となるのですが、資金不足からフレーザーと組んだようです。ただしグラハム・ペイジ社はそのまま存続、これが経営危機に陥った事、経営方針でカイザーと対立した事で1951年の段階でフレーザーは会社を去っています。

ただしフレーザーが去った後、同社も経営不振となり、1955年、自称ジープの生みの親、ウィリスと合併、カイザー・ジープ社となります。その後、紆余曲折があって会社は自然消滅するのですが、ジープ・ブランドは後に切り売りされ、紆余曲折の末、現状はクライスラー改めステランティスN.V社のブランドになっているワケです。



第二次大戦中、とにかく造られまくった量産型貨物船、リバティーシップ。1941年の秋から建造が始まり、終戦の1945年までざっと2710隻が建造されました。月産で56.25隻、すなわち一日平均1.8隻。まあ軽く狂ってますね。しかもあくまで平均であって、最盛期には日産6隻のペースで完成してました。なにそれ…。

当然、これは複数の造船所による並行建造による数字で、全米で16の造船所が建造に参加、その内7つがカイザー社の造船所でした。ちなみに月間量産空母こと護衛空母のカサブランカ級を主に製造していたのもカイザー造船所です。

ちなみに数があり過ぎて命名に困る問題に悩まされた船でもあり、とにかく適当とも言える勢いでいろんな人の名を付けてました。戦時国債の大量購入者、戦争英雄(戦死者)などが採用基準だったんですが、実は死んでおらず、終戦後、日本の捕虜収容所で解放され、自分の名が付いたリバティーシップの存在を知った人も居たそうな(ちなみに、もう一つ建造されすぎ問題が生じていたのがアメリカの潜水艦で、古今東西あらゆる魚の名前を使い切った。この点、無味乾燥な番号だけで乗り切ったUボートはいかにもドイツの合理主義っぽい)。

リバティーシップというか総トン数で5000トンをこえる溶接式の船舶の建造時間記録である、4日と15時間30分の記録保持者がカイザー社のリッチモンド造船所でした(ただしドックを出る進水まで。艤装を合わせると39日)。すなわちカイザーもまた、フォード式の大量生産の申し子であり、その経験から、戦後、自動車産業に乗り込んで来たのでした。

ついでに余談ですが、 Kaiserはドイツ語の「皇帝」であり、日本人で言えば帝(みかど)といったお名前。すごい苗字だなと思いますが、そこそこの数がドイツには居るようです。由来は不明。ある意味、カエサルでもあるわけで、やはりすげえ名前だと思いますが。



横から見るとかなりダサいヘンリーJ。

全体的に貧乏くさい印象なのは、そういった低価格帯の車、従来は中古車しか買えなかった層に向けての車として開発されたからでしょう。よく見ると、戦後アメ車の伝統、例の尾翼、テールフィンを持っているのが判ります。そういった点では確かに1950年代の車でした。ちなみにヘンリーという車名は当然、社長のヘンリー・J・カイザーに由来します。どういうセンスなの、という感じですがそんな人だったんでしょうね。ちなみに筆者が知る限り、本人が生きている間に会社関係者の名前を付けちゃった唯一の車だと思われます(ただしカイザーが尊敬する同名のあの人、ヘンリー・フォードにもちなんでいた、という話もある。1947年に亡くなったが、他の会社の創業者の名を勝手につけちゃったなら、それもまたアレだなあと思うぞ)。

これも戦後、ビッグ3の新型車開発の遅れを突いて造られた車の一つだと思われますが、1950年デビューだと既にビッグ3も戦後型モデルの発売を開始していました。そして当然、売れませんでした(涙)。

ライバルだったフォード、シボレーに比べてそれほど安くなかったからとされますが、このいかにも安物的なデザインが敗因だと筆者は思いまする。世間体と体面を気にするチンケなアメリカの中間所得層に取って、いかにも金がありません的な車は受け入れられなかったのだと思います(それを逆手に取ったのが辣腕経営者スローンで、GMは明確に車の「格」をブランドで定義し、お隣は我が家よりいい車に乗ってるわ、ちょっといい車買わなきゃ、というアメリカ人特有の下らない虚栄心を煽って大成功した)。

といった感じで今回はここまで。


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