さて、戦後の大衆車、最後はイギリス代表としてミニを取り上げて置きましょう。
1959年に発売が開始され、これまた同一モデルのまま2000年まで製造が続きました。展示の車は1959年製のオースチン ミニ・マイナーとの事なので、極初期型という事になります。
 


40年近い製造期間の間に約530万台が製造されたとされ、単一モデル車の生産数としては2CVより150万台近く多く、おそらくフォルクスワーゲンのTyp1、T型フォード、ラダのRIVAに次いで第4位の数字じゃないかと思います。初期のミニはオースチン社が開発したAシリーズエンジンを搭載、1951年設計の古いエンジンながら、850cc 水冷4気筒、しかもオーヴァーヘッドバルブ(OHV)で34HPを出していました。これはビートル、2CV、フィアット500等より優位で、戦後の大衆車の中では最も強力な物です。まあ発売時期も一番遅いので、当然と言えば当然ではありますが。

ただしイギリス人の頭の悪さが濃縮された販売方式を取った車なので、その名称はややこしいの一言。この記事では「ミニ」で統一しますが、とにかくどこの会社の製品で正式には何という名前なのよ、という点に尽きる車です(笑)。そもそもはBMC、すなわち英国自動車/British Motor Corporationが開発、発売した車でしたが、その発売開始段階から製品名の迷走は始まっています。

当サイトでは何度か述べたようにイギリスの自動車市場は早くからフォードの天下で、国産自動車会社の多くは戦後の早い段階から既に立ち行かない状態にありました。このため1980年代に至るまで、政府と労働組合を巻き込んで統合、半国営化などで大混乱が続きます。まあ最終的には皆さんご存じのように全て壊滅、イギリスに自動車会社は一つも存在しなくなるのですが。この辺りは遠い親戚のオジサンと自分の間の血縁関係を説明されるような鬱陶しい話になるので全て割愛します。最後は死ぬと判っている主人公の小説ほどツマランものは無いですからね。

とりあえずミニを開発したBMCは1952年、イギリスの自動車会社の多くを統合する形で産まれた会社でした。それでもイギリス市場の39%、4割以下のシェアしか確保できなったのですけども。しかもその統合形態はゼネラルモーターズのような方式でした。すなわち全製品をBMCの名で統一するのではなく、各社を販売ブランドとして残しBMC本社はその総司令部として存在する形態でした。このためBMCの名で売られる車は一台も存在しない会社となります。ちょっと日本人の感覚では理解しがたい部分ですが。

ただしGMのように大衆車はシボレー、高級車はキャデラックといった明確な階層分けしたブランドで車を販売するのではなく、同じ車を各ブランドでそれぞれ販売するという頭の悪い展開を見せます。まあ、イギリス人ですからね(笑)。とりあえずBMC設立段階で販売用ブランドとして存在したのが、オースチン、モーリス、MG、ウーズレー、ライレーでした。

このため1959年、BMCはオースチンとモーリスの両ブランド、販売系列店でこの新型車を売り出したのです。名前もブランドごとに異なり、モーリス・ブランドの販売分が「ミニ・マイナー」、オースチン・ブランドの販売分が「セブン」でした(余談だが7をSE7ENと書く元祖は多分この車)。すなわち中身は同じ車なんですが、「ミニ・マイナー」と「セブン」という別の車として売られたのです。ちなみにセブンの名は前回見た戦前の小型車、オースチン 7にあやかったものでしょう。このセブンは歴代「ミニ」の中で唯一、ミニの名を持たない存在でややこしいのですが、中身はミニそのもので同じ車です。

さすがに頭が悪い販売戦略だと気がついて、1961年にはどちらもミニの名で統一されるのですが、その1961年からはライレーがミニを大形化したエルフ(Riley Elf)を、ウーズレーがトランクを持つセダンに改造したホーネット(Wolseley hornet)の販売を開始します。ただしこれをミニに含めるかは微妙なとこで、とりあえず話がややこしくなるので、ここでは存在を無視します。ただしその1961年には市販の量産チューンド車と言える特殊な車、ミニ・クーパー(後述)が発売になって混乱に拍車を掛けます。

最終的に1969年のマイナーチェンジ(いわゆるMk-3)の時にミニがそのままブランド名になるのですが(すなわちモーリス/オースチン・ミニではな無く、単にミニ)、その後親会社の統合、分離があって1982年からはローバー・ブランドの製品となり(レンジ・ローバーのローバー)、ローバー・ミニとなります。さらに1995年にロ―バーのブランドをドイツのBMWが買収して、販売経路が再度変わります。ただしブランドとしてのローバーは残されたため、名称は2000年の生産終了までローバー・ミニのままでした。

はい、以上がイギリス人はどれだけ愚かなの?という感じのミニの歴史でした。これだけ波乱万丈ながら、結局イギリスから自動車産業は消えてしまうんですよ。同じ事が航空宇宙分野でも起きており(この辺りは労働党とソ連の暗躍とかイギリスらしい話がいろいろあるんだが割愛)、ホントにイギリス人愚かなの?以外の感想がありませぬ。

でもって、話をさらにややこしくするのが、ミニ・クーパーの存在。市販されたミニのチューンド車ですが、1961〜71年までの第一世代と、1990〜2000年までの第二世代に分かれます。さらに第一世代は、エンジン排気量や装備の違いによってクーパーS、Mk.I、Mk.II、Mk.IIIといった分類があり、正直、そこまで興味が無い人間にはどうでもいい割にはややこしい世界となっています。どれも見た目は普通のミニとほぼ同じですし。なのでこの記事では最低限の紹介のみとしますね。ちなみに第一世代のクーパー&クーパーSは10万台以上造られたと見られますので、この手のチューンド車としては、かなり売れたと見ていいでしょう。その間にイギリスのラリーで活躍したほか、あまりに有名なラリー・モンテカルロの1966〜70年の4連覇が成されました(ただし1966年はレース後に失格、よって最終的には三回の優勝となる)。他にも1000湖ラリーでも1965〜67年まで三連覇を達成し、ラリーの世界では一時代を築いた車となります。

その開発はクーパー社側から持ち掛けたとされます。1950年後半にリアエンジンのミッドシップF-1を開発(それまではフロントエンジンが普通だった)、1959、60年のドライバー&コンストラクターの両タイトルを獲得したあのクーパーです。どうもラリーに参入するに辺り、そのベースとなる車両を探している時にミニの旋回性能に驚いた社長のジョン・クーパーがBMCに話を持ち込んだようです。当時のラリーは市販車ベースで戦われ、一定数が生産された車で無いと参加できなかったので、その製造を依頼したわけです(この点、なぜ現在のラリー競技、WRCがこれを止めてレース専用車に切り替えたのか未だに理解できない。馬鹿みたいだよ、今のラリー競技)。BMC側は当初乗り気でなかったようですが、最終的にその生産を決定したとされます。

とりあえずエンジンを997tに拡大、55HPとしてギアボックスも強化、さらにフロントディスクブレーキを搭載し1961年9月、オースチンとモーリスから、どちらもミニ・クーパーの名で発売されます。その後、さらにエンジンを強化したクーパーSが1963年に発売となり、なんだかんだで71年まで生産が続くのです(ややこいしい事にスペインで行われたライセンス生産版のクーパーは以後も生産が続いたらしいが詳細不明)。

その後、1991年、すでに販売が頭打ちだったミニのテコ入れとしてクーパーの名が付いたモデルが復活するんですが、完全に別物であり、こっちは特に書くことが無いので、まあいいや。



右ハンドル車という事もあってか日本でも人気の高い車ですが、個人的には1980年代以降は手軽な大衆車ではなく、「オサレな私を見て」&「あざとい」系のイヤらしさが目に付く車だったなあ、というのが正直な所。よってあまり好きな車ではありませぬ。

「ほら、私ってば普通と違って個性的な人でしょ」と顔に書いてある典型的な平凡でつまらない人達が乗っている車、というのが筆者の印象なのです。まあ、もちろん例外もあったでしょうけど、大半がそんな感じでした。令和の21世紀だとAppleのノートPC持って日曜の朝からスターバックスに居る皆さまみたいな人達ですね。使っているスマホはiphoneで、それらをガジャットとか呼ぶ人種です。このため漫画の「よつばと」でミニ、しかもBMW版が登場した時は心底ガッカリした記憶が。この辺り、1960〜70年代に青春を過ごし、まだ生活臭のする時代のミニに出会っていれば話は変わったと思うんですが。

さらに言えば日本では多分に伝説化されている部分があり、その辺りの胡散臭さも個人的には苦手な部分。英語圏、というかイギリス人の自慢でよく見る「前輪駆動で横置きエンジン」という「斬新なデザインが採用されている」といった説明ですね。それは先に見たサーブの92がそのまんま既に採用していましたし、そもそも前輪駆動もシトロエン2CVを始め、この時代において特に珍しい設計ではありません。でもってそれをそのまま鵜呑みにした日本語の解説にも正直うんざりなのです。

この辺り、21世紀に入った直後辺りまで「専門家」の皆さんは英語の本に書いてある事は全て鵜呑みにしちゃう、それどころか英語の資料を翻訳するのが「専門家」だと思い込んでいた時代があったからでしょう。その後遺症は未だに残っているんですよね。この辺りは航空、軍事もそうでして、その手の「専門家」の皆さんが残した負の遺産が未だに大手を振って歩いております。自分の頭で考えて判断してから書けよ、と個人的には中学生の頃から思っておりました。幸い、「雑誌」というメディアが事実上死滅した時代になってその悪癖は同時に滅びましたが。それでも完全な絶滅まであと20年はかかるかなあ。未だにBBCの報道とかを鵜呑みにして直ぐに日本語にする皆さん、腐るほどいますからね。神さまが人類に頭脳を取り付けたのは、翻訳のためではなく思考のためだと思うのよ。

ただしフロントが一種のダブル・ウィッシュボーン構造なのは今見てもちょっと凄いと思います。不思議な事にこれを自慢するイギリス人、少ないんですよね。何で?ついでに映画「ミニミニ大作戦(1969)」のラストのカーチェイスで、変なV字型の骨を指に挟んで「願いを掛けようぜ!」と言うシーンがありますが、あれが鳥の鎖骨、ウィッシュボーン、すなわち願いの骨ですな。そこまで知っててやったシーンなのかは判りませぬが。よく見るとダブル・ウィッシュボーンのサスペンションに似てる骨でしょ。でもそんなん知らん人には、ウィッシュボーンってなんだよ、って感じの謎の名称になっております、ダブル・ウィッシュボーン(ダブルなのは車輪軸を固定するため上下に二つあるから)。

最後にちょっと脱線して置くと「ミニミニ大作戦(1969)」、その名の割にはミニがあまり出て来ないのは、この邦題は例によって日本の配給会社の命名だから。原題はItarian job、イタリアの仕事、といったタイトルでした。ついでに言えば、映画に出て来るのは三台ともミニ・クーパーです。FFでドリフト走行やってるあたり、旋回性よかったんだろうなあ、というのが伺えます。あと、クラークソン時代のBBC「トップ・ギア」、崖から落下オチがやたら多かったのはこの映画の影響だろうと個人的には思っているんですが、どうでしょう。

さらについでに言えば、あの映画、ミニよりフィアット500の方が数の上では出て来るし、途中で出て来る怪しい中華飛行機は、なんとダグラス C-74 グローブマスターでこっちの方が大興奮の人も居るかと。第二次大戦期に計画された幻の長距離、超大形輸送機で、終戦に間に合わず、結局14機しか造られずに終わるんですが、チョーカッコいい機体です。その内一機が戦後、イタリアで放棄されていたのを撮影に使ったのがあれ。

といった感じで今回はここまで。オマケ編はお休みです。


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