殿内にあった大仏の構造図。下の礎石から天井下まで貫く六尺大真柱(六尺は柱の直径)が大仏像の背骨になっているのが判るかと。右下は表面部の構造図で、竹カゴで組まれた原型に粘土を載せて形を造り、一切経の紙を貼り付けてから漆塗り、最後に金箔を貼り付けて完成となっています。全金属性の大仏さんに比べると安価だと思われますが、手間はかかっています。

余談ですが、一切経の経典を買うには当時でも相当なお金が必要だったはずで、予算不足で苦労したと伝えられる建立当時の話から、個人的にはちょっと怪しい気もします。



道内の左右壁面には誰だあんた、という感じの木像が並んでました。確か京都に似たような建物があったと思うんですが思い出せず。中国の蘇州でも似たような陳列を見た気もするけど、自信なし。



仏像の背面側の構造。この辺りはかなりキレイに整備されており、近年に大幅な補修があったと思われます、それでも柱も支柱もかなり細く、よくぞこれでこの建物を支えたなあ、と思う。壁の中に斜交(はすがい)の支柱が埋め込まれてるのかな、とも思いますが判らず。少なくとも1891(明治24)年の濃尾大地震には耐えているはずですが。
 


その大仏殿を出てすぐ目の前が岐阜公園。この公園中に城の直下まで登れるロープウェイ駅があるようです。ようやく辿り着きました。



そこにあった噴水の横に板垣退助像はこの先、の案内が。なんで岐阜で板垣退助、と思ったんですが、そうかここは岐阜市の金華山の麓なんだから「板垣死すとも自由は死なず」の現場なのか、と気がつく。現地に着くまで全く知りませんでした。ちなみに当時の警察の記録だと、実際は「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったようですが。

ついでに滋賀の大津では後にロシアの最後の皇帝となるニコライ2世が切りつけられており、新幹線が止まらない県庁所地の皆さん、血の気が多すぎない?と思わなくもなく。ちなみにそもそも県内に駅すら造ってもらえなかった茨城県の水戸も血で血を洗う土地だったし。新幹線、なにか呪われた超特急なのではと思わなくもなく。関西弁で言うと呪われたメチャ特急。


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