さて、ほぼ原型をを留めぬ城と言っていいのが今回訪問する小倉城。本来なら明智光秀の坂本城からの流れを継ぐ巨大な水城で、彦根城のように東側は巨大な入り江が天然の堀となっていました。とりあえずかつての姿を確認しておきましょう。ちなみに東岸の真ん中あたりの北側、当時は海中だった位置に現在の小倉駅があります。



国立公文書館デジタルアーカイブより  豊前国小倉城絵図


完全な戦闘城砦であり、さらに武家屋敷どころか町屋まで堀の内に入れてしまっています。城壁代わりに水堀を掘った中国式「城」とも言える構造なのです。ちなみに東岸と北岸部は堀で区切られた町屋になっており、これいざとなったら火を放つ気だったんじゃないかなあ。左岸のやや上の方に有るのが城の中心部で、現存するのはこの一帯の北側の、さらに一部のみです。まあ城跡としてはほぼ壊滅してるのですが、往年の戦闘城砦を想像しながら見学してゆきましょう。

ちなみにこの地図は幕府からの要請に基づき、1644(正保元)年に描かれた公式な城砦見取り図です。恐らく1609年ごろに完成した、細川忠興(ただおき)が築いた江戸初期の状態をほぼ正確に記録していると思われます(ただし描かれた時はすでに小笠原家の居城となっていた)。江戸期の城塞の構造を知る上でも貴重な資料でしょう。



城の心臓部を拡大。一帯は福岡城などと比べると、それほど広くないようです。ちなみに右上に見える大橋と書かれた橋が前回見た、木製で復元された常盤橋。後に改名されたようです。その橋の北西、城の心臓部のすぐ北に町屋が置かれているのが興味深い所。

現存するのは天守閣跡を中心とする一部の構造のみであり、当時の建物は一切残っていません。この辺りは幕末1866(慶応2)年に起きた第二次長州征伐の戦いで長州軍に敗れ、城が全焼してしまったからなのですが、火を放ったのは長州軍ではなく小倉藩自身です。以後、城は長州に占領されたまま明治の時代を向かえます。

ついでにこの見取り図にあるように小倉城には天守閣があったのですが、こちらは1837(天保8)年に起きた火災で一足早く失わていました…。

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