では天守台に入ってみましょう。



そこから地下部分に入ります。建物の礎石が残っており、その大きさと密度は天守閣を支えられるであろう規格に見えます。ただ礎石だけではそれ以上の証明にはならんでしょう。ちなみに天災による破壊以外、自主的に天守閣を取り壊した例は恐らくほとんど無く(多くは台風や落雷で破壊されたのに後世に尾ひれが付いたもの。金が無くて再建できない言い訳で幕府に遠慮した、という話になったと思われる)、そういった天災の記録が無い福岡城に天守閣があったとは筆者は考えておりませぬ。

ここも徳川幕府に遠慮して取り壊した、という話があるようですが、本当なら、同じく遠慮する必要があったであろうチーム豊臣の大名らは全員、率先して壊していたはずです。ところが実際は熊本城(加藤清正)、広島城(福島正則から浅野長政の息子へ)など、豊臣家ゆかりの連中の城でも幕末まで元気に天守閣が存在してましたからね。



地下部分から上に登る階段。当然、行って見ましょう。



かなり良い眺め。かつかなりの大きさで、ここに天守閣を建てていたら、相当な規模になったでしょう。ちなみに向こうのピンクの日傘をさしているのは中華系の女性で、なぜかスマホ相手に怒鳴りまくってました。何もここでやらんでも…と思わなくもなく。

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