ククク、これか、これが原寸大か。さすが天下の国宝、この大きさとはな。しかも文字が左右反転して無いから、捺印したら読めなくなるぜ。ククク、さすがはキンキンインイン、一味違うな。ついでに右端が小篆字の「漢」で、これを見ると漢字のサンズイは本来の意味は川だというのが良く判るぜ。



とか思ってたら、実際は石碑の横に貼られたこの小っちゃいのが原寸大の複製品でした。ええええ、こんなに小っちゃいのか。ちょっとガッカリ。まあ戦国期から漢代、さらには三国時代までの公的な印は一寸(約2.3p)四方と決まっていたはずなので、そういった意味では正しい大きさなんですが。

ついでに江戸時代の農民の皆さまがこれを掘り出してから馬鹿正直に役場の奉行職に届け出、さらにそのお奉行さんも天真爛漫に藩に提出したんです、とか言われたら、私なら笑っちゃいますね。江戸期にそんな道徳心のある人物が二人以上存在する可能性は太陽系内に人類以外の知的生命体がいるのと同程度かと。

ちなみにこの印が漢の国から贈られたものである証拠としてよく取り上げられるもう一つの金印、1956年に雲南省の墓で発見された滇(テン/ティン)王之印は単に金印と言う以外の共通点はほぼ無く、文字も内容も大きく異なります(刻まれた文字は「滇王之印」の四文字のみ。「漢」の名なんて全く出て来ない。さらに言うなら文字の読み方も左右逆。あちらは左から右に読む)。あの発見の意味は漢王朝はホントに周辺諸国に金印を与えていた可能性が高い、というだけで(ただし「漢」の名が出て来ないので、ホントに漢からもらった印という保証はない)、志賀島の金印がホンモノという証拠には全くならんでしょう。

さらにもう一つ、1981年に江蘇省で出土した廣陵王爾との共通性も指摘されますが、両者の共通点は「王」の字くらいで、あとは文面も文字数も全て異なります。そもそもあっちは漢の王族の印ですし。そしてどちらも漢王朝の品とされながら、「漢」の字はどこにもありませぬ。わざわざ自分の国名なんて彫り込んでないのです。ついで言うなら文字数が五という印章、漢代にあったんですかね。実際、中国で出土した二つの金印は普通に四文字を均等に置いてます(五文字の印章は西晋と晋、すなわち三国志の魏の末裔の時代に多い)。



そこから見た島の中心部。あれ、意外に高低差あるな。 ちなみに帰宅後の確認したら最高地点は、ほぼ標高170mあるそうな。



石造りの鳥居が見えました。ちょっと興味あり。後で行ってみましょう。



その前に、例の砂州、九州本土に繋がる道をちょっと見て置きたいので、そちらに向かう。



その海の中道の砂州を走る道路からバスがやって来ました。そういやバス停も見た気がするな、と思って後で確認したら、本土側はなんと天神までバスで行けちゃうと知る。ちょっと乗ってみたい気もしたんですが、どんだけ時間がかかるのか読めないので見送り。ついでに志賀島内もバスで移動できると知ったんですが、これも時間が無くて見送り。無念です…。

ちなみにバスの終点は勝馬なるバス停らしく、こんだけギャンブル性の強い名前のバス停は珍しいと思いました(ただし読みは“かつま”らしい)。同名の神社でもあればギャンブラー相手に一儲けできそうな気がしますが、調べてみた限りでは存在しないようです。

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