登りましたよ、ええ。 こじんまりとした神社でしたが、拝殿と本殿がキチンと分かれた、いい感じの建物でした。江戸期のものだろうなと思って現地の案内板で確認したら本殿は建築時期不明ながら恐らく観世音寺の再建とほぼ同じ17世紀中、右の拝殿は1714(正徳4)年と、これも比較的古い江戸期の建物でした。なんかこの一帯の江戸期の建物は皆、いい感じですな。 ついでに現地案板によると、観世音寺が没落して廃寺状態になったのは秀吉の怒りを買った結果、とされていました。九州征伐に来た秀吉が、その帰りに大宰府天満宮に立ち寄り、この日吉神社に陣を置いたそうな。この時、隣にあった観世音寺の別当(寺のボス)は秀吉が誰かを知らず、無礼な態度を取って怒らせてしまい、寺領のほとんどを没収されてしまった、との事。その後、先に見たように江戸期に入ってから再建されたようで、この辺りは近江周辺の寺院、三井寺などと同じ事情のようです。 ただし秀吉の九州征伐、実は戦国末期最大の謎であり、同時代に成されたまともな記録がほとんどありません。特に豊臣側の記録は全く無いに近く、辛うじて竹中半兵衛の息子、竹中重門が江戸期初期にまとめたと思われる豊鑑の記述があるだけです。よってそもそもどんな戦いが展開されたのかすら確かではありませぬ。ただし一帯を制圧した後、戦後処理で現地に残る、というのは小田原城攻めの時もやってるので、実際に秀吉がこの辺りをウロウロしていた可能性はあります。 ただしこれだけ高い場所に陣を張ったとなると戦陣のようにも思えるんですが、筑前地区の戦闘は秀吉が出陣する前に終わっていたと思われ、いろんな伝承がごちゃまぜになってる気もします。まあ、いずれにせよ、21世紀に確認する術は無いんですが。 では戻りましょうか。夏至の木漏れ日がいい感じです。 散歩していて楽しい一帯でした。 一帯は大宰府の中心部跡地なので、道中、いろんな遺跡が点在しておりました。ここは大宰府学校院跡地だそうな。官僚養成機関だったようです。 |