大和朝廷最終決戦要塞 ダザイフ

さて、今回の旅行記に入る前にちょっと述べて置きたいのが古代九州と大和朝廷決戦要塞 大宰府となります。今回、筆者が福岡を目指した理由の一つがその辺りを自分の目で確かめたい、だったからです。

日本の場合、自称最古(断言するだけの証拠は未だに見つかって無い)の文献「古事記」ですら成立が西暦712年、8世紀です。
それ以前のまとまった文章記録は無いため7世紀以前の歴史は全て古代のロマンになってしまいます。が、7世紀と言えばエジプト3000年文明はとっくに崩壊、ローマは東西に分裂どころか西ローマは滅亡済み、ついでにイスラム教国家のイスラム帝国がすでにブイブイ言わせておりました。さらにお隣の中国では四面楚歌でおなじみ項羽と劉邦の戦いどころか三国志もとっくに終了、当時銀河最強だった(とういか漢民族国家としては歴代最強)大唐帝国が成立していました。

この辺り、いわば東京では光回線だ5Gだでネット社会があたりまえなのに、千葉の沖に浮かぶ田舎の小島では未だに電報しか無かった、みたいな話なわけです。なので日本の古代ロマンとか言われても筆者は全く魅力を感じないのですが、例外が一つだけあります。九州です。

現存する最古の史書である「古事記」と「日本書紀」は登場キャラが多すぎる上に全く整理されておらず、さらに名前が長すぎて覚えられません。それに加えて同じ話が何度も繰り返される(一説にはという形で同じ話が形を変えて何度も繰り返される)、せっかく張った伏線は回収しないのに伏線無しで新しい事件がバンバン起きる、という世界の史書の中でも稀に見るお粗末な内容となっています(私の知る限りこれに匹敵するのは元朝秘史くらいだ)。この辺り、天照大神が自ら漫画にまとめて21世紀の編集部に持ち込みしたら速攻で叩き出されてオシマイ、という程度のシロモノでしょう。

それでも人間が書いたものですから、根気よく読めば、以下の点は中学生でも理解できる展開になっています。

■神様は高天原で暮らしてた。高天原がどこかは知らんけど。

■高天原の暴れん坊、スサノオノミコトはいろいろあって(諸説あり)高天原を出て葦原中国(あしはらのなかつくに、原野の事だろう)、すなわち地上に来た。

■とりあえずスサノオは出雲に着陸(一説には朝鮮半島の新羅に着陸後、出雲に来た。それ以外にも朝鮮半島との関りを示す話あり)、そこで酒を飲ましてヤマタノオロチを退治、草薙の剣を見つけてから奇稲田(クシイナダ/イナダ姫とも呼ばれる。稲作の象徴か)姫を嫁に貰って出雲一帯を支配した。

■その夫婦の子(日本書紀。他の資料では孫とも)が大己尊貴神(オオアナムチノミコト。ミコトは神か命の両文字が使われる)。長くて面倒なので、以後、オオアナムチとする。このオオアナムチが以後、葦原中国の出雲一帯を支配する。ちなみにこの人の別名が古事記の大国主命(おおくにぬしのみこと)。ただし日本書紀にはその名が出て来ないので、ここではオオアナムチで通す。

■高天原のボス、高皇彦霊尊(タカムスビノミコト)は孫好きの爺ちゃんで、地上の葦原中国を孫にくれてやろう思い立った。詳しい理由は知らんけど、ちょっと狂気を感じますな。ちなみにその孫が後の天皇家の始祖とされる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。そこで次々と神さんを送り込んだが、皆、出雲のオオアナムチに取り込まれて裏切ってしまった。あれま。

■仕方ないので武闘派の神さん二人を送り込んで、オオアナムチを亡き者にし(身を隠すといった表現だが要するに殺したという事だ)、その国を強奪する事に成功する(いわゆる国譲り)。

■その後、爺ちゃん溺愛の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が地上、葦原中国(あしはらのなかつくに)に天孫降臨するのだが、何故か日向の高千穂の峯に下り立ってしまう。即ちスサノオでお馴染みの島根県を武力制圧しながら、スサノオのスの字も無い宮崎県に着陸しちゃった事になる。方向音痴か馬鹿なのかどちらかだと思うが「古事記」にも「日本書紀」にもその辺りの説明は無し。ちなみに現在の高千穂一帯は江戸期以降の地名で、「和名類聚抄」を見る限り、少なくとも平安期までは阿蘇山周辺も高千穂(字は智保/高智保)に入っていた。個人的に神さんが降りて来るなら阿蘇山だろうと思っているが根拠は無い。

■その後、日向国周辺、宮崎県から福岡県周辺で神さんの末裔はブイブイ言わせていたのだが(日本書紀によると179万2470年間。神さんだから人類誕生前からサルとイノシシ相手にブイブイ言わせていたのだろう)、神武天皇に至って、門司から見えるあの狭い海、すなわち瀬戸内海をちょっと東に行って見ない?と言い出した。この結果いわゆる「神武の東征」を開始。ノリと勢いで瀬戸内海最果ての大阪上陸までは上手く行った(浪速は潮の流れに乗ってあまりに速く到着した故の命名。すなわち神代の伝説的な命名である、浪速)。

■ところが現地の豪族に完敗した神武閣下は、俺らは太陽神である天照の末裔なんだから東から攻めなきゃダメじゃん、と言い出して紀伊半島を南下し(一部海路を突破)、熊野に上陸、そこから吉野を経由して奈良盆地の橿原に至って大和朝廷を開くよ、めでたしめでたし。

なんぼ戦闘で負けたと言っても、大阪から奈良盆地に至るのに紀伊半島を海路で南に回り込み、熊野から吉野を突破して占領に至るって頭悪すぎないか、という気もしますが、何か事情があったんでしょう。とりあえず日本の正史ではそうなっております。

以上から、文献資料を見る限り、大和朝廷が九州の宮崎県&福岡県周辺からやって来たのは確かなんですが、以後は奈良盆地を中心に政治を行い、朝廷はここだけを中心に成立した事になっているわけです。

嘘だろう、と筆者は思っているのです。すなわち少なくとも鎌倉時代末期くらいまでは、大和朝廷発祥の地である九州もまた日本の中心地の一つとして認識されていたと考えております。

■西の都にして決戦城砦 大宰府

この点を最初に感じたのは「平家物語」を読んだ時でした。

平家は都を追われてドンドン西に逃亡、最後は瀬戸内海の終端、関門海峡で全滅という印象がありますが、実際は一度、一気に九州まで逃げ切っちゃっています。そこで現地の勢力に追われ、再度瀬戸内海を東に戻り、小豆島南西、現在の徳島県にある屋島一帯に逃げ込んだのでした(なぜ屋島かは後述)。その地で源氏と再戦、(その合戦の最中に那須与一が扇を撃つ)、破れてまた西に逃げ出し、最後は関門海峡で滅亡するのでした。

でもって平家は九州上陸後、最終的に大宰府に入り、ここに新たな都を建設しようと企むのです。なんで大宰府、というのが個人的な感想でした。だってただの田舎の役所跡でしょ?菅原道真が左遷されたショックで死後、サンダーミチザネにメガ進化しちゃうような土地でしょ。ちなみに平家物語にはチラっと博多湾最終防衛線 水城も登場するのですが、この点は今回の旅行で読み直すまで筆者も見落としてました。

次にあれっと思ったのはその次の戦争譚とも言える、「太平記」でした。室町幕府の始祖、足利尊氏は一度は栄達しながら後醍醐天皇と対立、都落ちするハメになり九州に落ち延びます。そしてこの時、尊氏を支持した九州の豪族、少弐貞経(しょうに さだつね)は大宰府に本拠地を置き、後にそこで戦死しているのです(厳密には現在太宰府天満宮の北にある山の上に城があったらしい)。さらにその後、「太平記」では特に何の説明もないまま、尊氏は「大宰府から出立」して都に攻め上がった述べているのです。すなわち平家に続いて尊氏もまた大宰府を本拠地に使っていたのです。

どうも都落ちして再起を狙う連中、大宰府が好きすぎない?というのが私の感じた最初の違和感でした。これはただの田舎の役所ではなさそうだ、と。

さらに元寇の記録を見ると、元からの使者が大宰府に来た、という記述が何度もあり、さらには幕府の命を受けた少弐資能(太平記に出て来る貞経の祖先)が一帯の御家人に対して大宰府に来るよう動員をかけています(上府とあるがこの一帯に府は大宰府しかない)。そして元や高麗側の史料にやたらと大宰府の名が出て来て、かなり警戒されていたことが伺われるのです(ただし連中は博多湾一帯をまとめて大宰府と呼ぶことがあるので注意)。

どうもこれ、ただの田舎の役場じゃないよな、と思って調べてみると、近年の発掘によって大宰府は平城京などと同じく、長安の都に倣った碁盤目状の街区を持った都城だったと知ったのです。あれま。



現地の大宰府展示館に展示されていた復元模型。

中央を朱雀大路がぶち抜く碁盤目構造は長安をパクった藤原京や平城京と全く同じもの。発掘調査の結果、朱雀大路の幅は35m前後と見られており、これは大和朝廷が最初に作った都城、藤原京と同じ規模なのです。その大宰府は7世紀には成立していたと見られていますから、大和朝廷が最初に作った都城、藤原京と同時期であり(それ以前の都は宮殿だけあちこちに造って関西一円を迷走していた)、一部の研究によると、むしろこっちの方が先ではないか、という話すらあります。すなわち当時の日本には東と西に同じような碁盤目状の都城が爆誕し、しかも西の大宰府の方が先に造られた可能性がある、という事です。

そして既に見たように都落ちした連中はここにやって来ては再起を謀る、場合によっては新しい都を造ろうとすらしたのです。なので少なくとも鎌倉時代末期ごろまでの九州は我々が思っていた以上に重要な土地、東の都に次ぐ土地だったのではないか、と個人的には思っています。その辺りの記録はほとんど残ってませんけどね。

ついでに述べて置くと「九州」と言うのは本来、古代中国における「全国全土」を意味する言葉でした。古代中国は九の州からなっていたからです(ただし九の州の構成は時代によって変わる)。日本の九州の名が最初に出て来るのがいつかは不明ですが、少なくとも「平家物語」や「吾妻鏡」には登場するのが確認できます(両者とも成立は1300年前後)。なのでその前後の時代から、一定の独立性を保った一帯として九州は認識されていたんじゃないかなあ、と。



そして二つ目の驚きは大宰府の構造でした。

写真はこれも大宰府展示館にあった土地模型ですが、中央の黄色い線で囲まれた大宰府を中心に、博多湾側には無敵の巨大防壁、水堀と堤を持つ水城が(いくつかの資料だと元寇の時にこれを再利用しようとした形跡がある)、その横には未だに日本最大の山城である大野城が築かれていました。そして近年の発掘調査により、一帯はさらに基肄(きい)城など複数の山城で囲まれ、それらは城壁で結ばれていた、すなわち史上最大級の朝鮮式山城の城砦、羅城(らじょう)だった可能性が明らかになりつつあるのです(周囲の防御城壁が羅城で、中心の都市は単に城。漢語の城は城壁を持つ街の事。その羅城にあるのが羅城門で、それが日本語で訛った結果が羅生門)。ちなみに現在判明してる範囲だと南北で約10q、東西で約8q、外部城壁が本当に存在したなら(部分的な発見のみなので全周が完全に囲まれて居たとは断言できない)全周で約30qという凄まじい規模の羅城となります。もし奈良時代に火星人が攻めて来たなら、私ならここで迎え撃ちますね。



日本最大の戦略的要塞構造物、水城(みずき)はその堤部分の多くが現存します。画面中央、平野部を遮断するように走る緑地がその跡地です。本来は右側、福岡湾側には水堀が造られており、東西二か所の門からのみ出入りが可能でした。

国家滅亡後に関係者が日本に亡命、大宰府の成立に貢献したと思われる百済の首都、扶余の羅城が全周10q前後と見られている点からしても破格な規模と言っていいでしょう。ちなみに韓国の首都ソウルは李氏朝鮮時代、14世紀に造られた羅城がありましたが、これも全長は20q以下と見られています。よって朝鮮式の山城を結合する羅城としては世界最大の可能性もあり。

なので大宰府はサンダーミチザネ爆誕の寂れた田舎役所どころか、日本最強の城砦都市だった可能性がある事が、近年の発掘で次々と明らかになりつつあるのでした。そもそも大宰府は663年、「白村江の戦い」で百済の残党と組んだ大和朝廷軍が、世界最強の唐軍とその金魚のフンだった新羅軍にケチョンケチョンのシオシオのパーにされた結果造られたものでしたから、それもアリでしょう。ただしそれほどの施設が突然誕生したと考えるよりは、以前から一定の政治施設が九州にはあった、と考える方が自然な気がするよね、というお話なのです。

ちなみに「白村江の戦い」の敗戦後、大和朝廷は朝鮮半島に置ける影響力を失うのと同時に、太陽系最強の唐軍が「こんにちは日本」と攻めて来るのではないか、という恐慌状態に陥ります。ちなみにこの時の大和朝廷は死ぬほどビビっており、天智天皇は都を考えられる限りの奥地、琵琶湖岸の大津、すなわち近江京にまで移してしまいます。さらに自分たちが瀬戸内海沿いに浪速まで来た以上、きっと唐の軍勢も同じことをする、と考えてこの大宰府だけでなく、瀬戸内海沿いにもいくつかの城砦を築きます。その一つが後に平家が立てこもる屋島なのです。

この辺りを踏まえて、現地に入ったのが今回の旅でした。どこまで触れるかは判りませんが、頭の片隅置いていただけるとありがたいなと思います。といった感じで今回はここまで。

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