その先でなんだか妙に立派な白壁の門が。慶沢園という日本庭園の入り口らしいですが、残念ながら閉園まであと2分でした…。 どうもこの奥に大坂夏の陣で有名な真田幸村の本陣、茶臼山があったらしいと帰宅後に知る。うーむ見て置きたかった。というか、外堀まで埋められた大阪城から、こんなに離れた場所に、こんなこともあろうかと、という感じに出城を造ったのか。もう完全に死地であり、なんというか、すごいな、真田さん。 ちなみに、その前の冬の陣では家康が本陣を張ったとされてますから、茶臼山、大阪城の本丸以外では貴重な高台だったのでしょう。どうもそもそもは古墳らしいのですが。 その奥が大阪市立美術館。こちらも戦前の昭和の建築で、1936(昭和11)年に完成した鉄筋コンクリート式の建物。 この時期に大阪の建物の近代化が一気に進んだんでしょうかね。ここも中だけも見たかったのですが、すでに閉館時間なり…。 その前から天王寺の動物園と通天閣を見下ろす。 ああ、ここは全体が台地なんだと気が付き、そりゃ織田時代に大阪本願寺攻めの砦はここに置くだろうし、その跡地である大阪城の冬の陣でも、ここに徳川本陣を張るよね、と思う。大阪城側の高台の優位が生きませんから、守るには理想でしょう。 そう考えると、1574(天正四)年五月に大阪方面の織田軍団を包囲殲滅一歩手前まで追い込んだ一向宗の皆さん、凄いな。しかも長篠の戦いで武田軍を殲滅した後の織田軍が相手ですからね。まあ、これを1/5の戦力で完全撃破しちゃう信長閣下はもっと凄いんですが(笑)。 この年の五月三日、織田軍の大阪方面司令官、原田(塙)直政率いる部隊を本願寺の一向一揆衆が一万の兵で奇襲し包囲殲滅、そのまま織田軍の残党、明智光秀と佐久間勘九郎が守るこの天王寺の砦に殺到します。最終的に本願寺側は一万五千の兵数となっており、主力である原田部隊亡き織田軍団は殲滅寸前まで追い込まれる事になってしまいます。ちなみに原田部隊は数千の鉄砲持っていたとされますから、それを撃破しちゃった本願寺の一向一揆衆、恐るべしです。 この時はわずか四日で一向宗は大阪周辺に居た織田軍を殲滅直前まで追い詰め、しかも原田は明らかに陣地から誘い出されての奇襲、包囲殲滅ですから、これ、素人の戦争じゃないですぜ。数千の鉄砲を打ち破った、という事は一向宗側にもまた相当な鉄砲があったと考えるべきでしょう。 しかも織田軍の指揮官は原田と明智という、かなり手ごわい連中が居ましたから、一向宗の戦術は相当なものだったはず。残りの一人、勘九郎はボンクラですが、一人で軍団を全滅させるほどではありませぬ。光秀が付いてますしね。 そしてこのピンチを救ったのが信長閣下ご本人でした。 原田の戦死から二日後の五月五日、天王寺から約8q東の若江城に先行して京都から入城、本軍の到着を待ちます。ところが天王寺砦が殲滅寸前にまで追い込まれ、とにかく集まった三千の兵だけでの強襲を七日の段階で決断するのです。 ちなみに司馬遼太郎さんが、信長が少数で多数の敵に当たる無茶をやったのは桶狭間の時だけ、と何度か書いてるのは残念ながら誤りで、この時も約五倍(笑)の敵をいきなり強襲、これを撃破してしまっています。司馬さんの小説は面白いのですが、あまりまじめに資料に当たって無いんですよね(涙)…。まあ、それでも私はその作品を愛してますが。 ついでに言えば、この時の戦いはホントにもう無茶苦茶で(笑)、信長閣下はまず三千の兵で東から突入して本願寺の包囲網を突破、天王寺の砦に入って生き残り部隊と合流、そのお気に入りである光秀君と再会できたわけです。 でもって、この増援部隊の到着で人数は確保できたから、大人しく天王寺砦に籠城して織田本軍の到着を待とうね、と皆が思っていたら、馬鹿言うな、敵がわざわざ密集して集まってくれたのだ、突撃あるのみ、と周囲の反対を押し切って信長閣下は砦の門を開けて出撃、有言実行の人ですから、ホントに三千の兵で一万五千の包囲軍を駆逐し、敵の1/5近い2700の首を取ったとされます(信長公記)。 ほとんど知られてませんが、信長の戦争芸術の一つなのです、この天王寺砦の戦い。そして戦闘指揮官としての信長さん、負ける時は負けるんだけど、ハマると鬼のように強いんですよ、この人。常に前線に立ち、情報を自ら集める人でもあり、信玄なんて敵じゃない、日本史上最強の指揮官の一人でしょう。 でもって信長×光秀ラヴみたいな事書いといて今更ですが(笑)、実際は信長さんの男の子大好き天下布武伝説について、当時の資料で確認できるものを私は知りませぬ。ご朱印状関係は全てを見てませんが、我是男色家、天下布武にいざ行かう、などというご朱印状を誰に発行するんだという話で、見るまでもなく存在し無いでしょう。よって信長さんが男色大好っ子と言う証拠はおそらく地球上に存在しないはずです。 じゃあなんでそんな話がと言うと、これまた司馬遼太郎さんが原因の一つだったりします…。 とりあえず、司馬遼太郎の考えた事 5巻に出て来る文章を引用すると、 「信長の晩年、信長が諸将の前で利家をつかまえ、その白毛まじりの髭を引っぱり「この男が子どもの頃、わしは寝床で寵したものよ」と言ったとき、諸将は声を上げ、利家の幸福を大いに羨んだという。利家は、晩年になってもそれが自慢であった。」 という話が紹介されており、さらに別の小説作品の中でも同じような事を書かれていたと記憶します。 これが事実なら信長君てば男の子が大好きよ伝説の完成ですが、遺憾ながらほぼ誤訳です。そんな話では無いんですよ、そもそも。 この話の出典は前田利家本人が晩年に話した内容を記録した「利家夜話」で間違い無いでしょう。 その「巻の上」に、天下を手中にしつつあった信長さんが嬉しくなって安土城に主要な家臣を呼んで鶴汁パーティーを開いたお話が出てきます。この時、チョーゴキゲンな信長さんは参加者の一人一人にお礼を言いながら贈り物を手渡して行きます。で、いよいよ利家の番になった時、「御引物下され候刻利家様、若き時は信長公御側にて寝臥なされ、御秘蔵にて候と御戯言」という一文が出てきます。これが司馬さんのお話の元ネタです。 が、そもそも主語は「利家様」であり、すなわち信長の発言ではなく、利家本人の発言なのです。 その大意を取るなら「若いころには信長様と一緒に寝起きしていた、秘蔵っ子ですぞ」と信長様に冗談を申し上げた、といった所でしょう。この「寝る」をウフンアハンの寝る、に解釈したのだと思いますが「寝る」にそういった意味が出てくるのはもっと後の時代です。ここでは「寝臥」とされますから、これは普通に受け取るならゴロ寝してる、という以外の他意は無いでしょう。 そもそも平安期からの文語がそれほど進化してないこの時代、純粋にお休みなさいの「寝る」と考えるのが自然かと。すなわち長く寝起きを共にした仲間の一人、といった感じの意味に取るのがより近いと思われます。 そして次の「御秘蔵なり」を大切な人、といった意味に取ってますが「秘蔵」は一般に馬や武具などに使う言葉なので、俺が織田家の秘密兵器だ、くらいの意味と考えるのが適切かと思います。そして最後に御戯言、すなわち冗談を飛ばした、とはっきり書かれてるわけです。これをどう解釈しても、信長が「この男が子どもの頃、わしは寝床で寵したものよ」と発言した事にはなりませぬ。 ついでに言うと、「諸将は声を上げ、利家の幸福を大いに羨んだという」は部分は完全な勘違いです。 この文章はこの後、信長が利家に掛けた言葉、お前は少年のころから合戦で敵の首を取り、それがきっかけて大勝したりしたよな、という言葉に対して起きたものです。この点はもう、完全に文章をまともに読んでない勘違いですね。 さらについでに白毛まじりうんぬんは原文には一切ありませぬ。当然、利家が自慢にしてたのは、後者の信長の発言、少年時代のお前のおかげで勝てた合戦もあった、の方です。ついでに信長が利家の髭を引っ張る行動も、この利家を賞賛する時のものです。 その上ついでに利家は別に自慢したのではなく、この時、鶴の汁を食べ過ぎで腹を下しちゃった、テヘ、という話をしてるのでした。 それでも司馬さんのファンだけどね、と断った上で信長男色家伝説はおそらく信長本人の意に反する話だよ、という事を述べておきまする。まあ、大阪の旅行記だしね。 では、その橋を渡って今回の旅の最後の目的地、新世界に向いましょう…という感じで今回はここまで。 おそらく次回、最終回です。でもってオマケ編は、お休みなり。 |