恥ずかしながら、この旅に出るまで、地上から琵琶湖を見たことがありませんでした。ちなみに新幹線の車窓から見えるのは瀬田川の河口に過ぎぬと今回の旅で初めて確認、自分の認識の甘さに涙しております。 ついにで言うなら一切の地理勘も無く、今回の旅行前に調べるまで大津は三重県の県庁所在地だと思っておりました。ごめんなさい。 そもそも近江を「おうみ」と読むと知ったのも随分と歳を取ってからですし、近江が滋賀県だとも知ったのはもっと後です。ずっと鈴鹿山脈あたりから伊賀、甲賀辺りだけの地名だと思っておりました…。まさか琵琶湖全体を含むとは夢にも思わなかったのであります。 ただしこの点、淡海に江の字を当てるとか大和朝廷の連中って馬鹿じゃないの、とも思いますが。川の事ですよ、本来。ちなみに江戸は無数の河川の河口部でしたから、意味としてはあってます。 が、このように失礼なまでに無知なまま出かけたので、逆にその衝撃も大きかったのです。近江、滋賀県は実に美しい土地でした。 司馬遼太郎さんが、近江がどうにも好きだ、と「街道をゆく」の中で書いているのは読んで知っておりました。 ただし先にも書いたように地理勘がゼロ、しかもあの単行本の地図(特に初期のモノ)は担当者の頭が弱いのか極めて判りにくく、どこ歩いてるのか全く判らないのでした。よって今回の旅行中、何度も「街道をゆく」の中に出ていた場所ってここじゃん、と驚きながら歩くことになります。 そして司馬さんがおっしゃるようにとても美しい土地であり、同時にその美しい湖畔の景色が一気に失われつつある様を再確認してくることになります。それでも当時よりはだいぶマシになったと思いますが。 本来は、日本の歴史の主要舞台を自分の目で見て置きたい、という旅だったのですが、結果的には琵琶湖と近江の国の美しさを痛感する旅にもなったわけです。 関東の人間には琵琶湖と聞いても正直何も思い浮かばぬ、という面が大きいのですが、いやはやとんでもない、京都や奈良と互角以上に殴り合える風光明媚な土地なのでした。 さらにはやはり行って見なくては判らぬ、という事が多いことを実感する旅でした。 戦国期、信長が美濃を制覇した後は、琵琶湖の湖畔一帯が常に主要な戦いの舞台であり続けます。六角家との戦い、浅井・朝倉との戦い、延暦寺との対決、そして本能寺後の最大の決戦となった賤ケ岳(小牧・長久手の戦いは部分的な衝突で終わってるので)と、まあズラリと大きな事件が続くのです。最後の最後の大決戦、関が原も岐阜方面から琵琶湖湖畔に入るための峠道ですしね。 これらは知識としては知っていましたが、現地に入ってそうか、そういう事かと気が付く事ばかりでした。ついでに現地の歴史案内ボランティアの方々数名とお話したのですが、皆さん、驚くほど博識で驚愕しました。「信長公記」と「天正記」くらいは軽く読んでる、という感じです。そこに地元の伝承やら自ら歩き回って経験を加えて教えてもらえたので、いやはや、実に勉強になりました。 というわけで、ニオノ海の遊撃戦、近日開始です。 |