■日吉大社
今回から突入する日吉大社は日本を代表する神社の一つであり、同時に最も古い神社の一つでしょう。
ここは複数の神様が混在する神社ですが、とりあえず日本中にある日吉神社、日枝神社、山王権現の本社となっています。ちなみに境内にある八王子社も全国にいくつかの支社を持ち、東京の八王子市の名はその支社の一つに由来します。牛頭(ごず)天王信仰の一つなんですが、その辺りはまた後で。
現在では日吉大社で「ひよしたいしゃ」と読みますが、本来は大の字が無く、日吉を「ひえ」と読んでいました。恐らく比叡山と同じ発音に由来すると思われますが、語源は不明。ちなみに山王権現(さんのうごんげん)の別名も持ちますが、これはお隣の山の上にある延暦寺と一体化した宗教施設としての名称です。平安時代以降、比叡山延暦寺が政治的な力を持ち始めると、日吉大社はその支配下に置かれ、以後は江戸末期まで事実上一体化した宗教施設でした(何度か旅行記で書いているが明治になるまで日本の仏教と神道は雑然として一体化していた。神さんも仏さんもとにかく拝んどけ、という宗教観である。その中で日本の神様も仏の一種とみなす信仰が権現信仰)。その名残で、前回見たように日吉大社の門前、日吉馬場一帯は延暦寺の子院のお寺(里坊と呼ばれる)がずらりと並ぶのです。この延暦寺による支配は明治の廃仏毀釈と神仏分離により、日吉大社として独立した神社に戻るまで続きました。
日吉大社は猿を神の使いとする神社として有名です。このため西本宮の拝殿には絵猿とでもいうべきものが奉納されてました。
ちなみに豊臣秀吉の幼名を日吉丸とするのは例によって史料的な価値がいろいろ怪しい甫庵太閤記にしか見えない話で、恐らく創作でしょう。猿に似ていた、という話から日吉大社との連想で甫庵が勝手にでっち上げたと名前だと思われます。ついでに言えば秀吉が猿と呼ばれていた証拠は私の知る限りでは信長の手紙が一点あるだけで、その信長は別の手紙ではハゲネズミと書いてたりします。どうもその時の気分で適当に呼んでいた、という可能性が高いと思われまする。すなわち秀吉が猿と呼ばれていた、という話もまた怪しいのです。ついでに言えば、日吉丸の読みは「ひよしまる」ではなく「ひえまる」じゃないかと思っております。
日吉大社は長年に渡り建立、再建が続いたたので、それなりに複雑な構造を持ちます。さらに信長さんによる神社丸ごとお焚き上げによって完全に滅んだため(先に述べたように当時は事実上、延暦寺の一部だったので焼き討ち対象となった)、現存する建物は全て豊臣時代以降に再建されたものとなっています。
恐らくその段階で大整理があったと思われますが、大きく西本宮、東本宮、そして八王子山の山頂にある奥宮の三つの地区に別れ、その前に全ての玄関口である大宮橋一帯があります。なので単純に本殿だけでも三つ、さらに本殿に次ぐ宮が四つ以上ある、という複雑な構造を持つ神社です。いかにも山岳信仰から始まった古社と言う印象であり、個人的にこういった古い構造の神社は初めて見たので、ちょっと面白かったです。
建立が古い順に山上の奥院、東本宮、西本宮となるのですが、現状、最大の規模を誇り、事実上日吉大社の心臓部となっているのは最も新しい西本宮とそれに伴う形で建てられた二つの社殿、宇佐宮、白山宮の一帯となっています。
といった感じが最低限必要な予備知識となります。ではさっそく行って見ましょうか。
|