なかなか美味しかったです。そして秋の三井寺境内でのんびりお茶を飲むのも楽しかったです。



さて、いくつかの取りこぼしはありますが、時間が無いのでそろそろ撤収としましょう。案内図で見るとこちらが出口のようです。



どうやらあれが正門に当たる仁王門(大門)のようですね。そういえばこれだけの規模のお寺なのに三門が無いし、そもそも門らしい門はここだけですね、三井寺。



その横に、またいい感じの建物が。

そして例によって現地の解説板には食堂であり釈迦堂であるとだけ述べられており、ホントに支離滅裂でよくわからず。帰宅後に確認した所、そもそもは食堂として使われていた建物が、江戸末期に釈迦堂として改築されたモノのようです。ただし大筋で室町期の構造を残しており、そもそもは天皇の住宅である当時の清涼殿を持って来ちゃった、という言い伝えもあるそうな。ただし室町時代にこんな立派な清涼殿があったとは個人的には思えませんが。ちなみに重要文化財。

もし本当に当時の内裏の建物となると、信長による京都御所の整備で建てられたものが、秀吉による再整備で不要とされ、ここに持ち込まれた可能性もあり。当然、詳細は不明ですけどね。



ここもいい感じの建物でした。でもってこれが元々住居だったとすると、メチャクチャ風通しがよく、当時の人達にとって冬の寒さより夏の暑さの対策の方が重要だったのか、という印象も受けます。



では最後に仁王門を潜って…と思ったら、これ通行できないんですね。ちなみに重文。
これも家康が秀吉の伏見城から勝手に移築した建物の一つで、やはり関ケ原合戦の翌年、1601(慶長六)年に寄進されたもの。秀吉が廃寺にした三井寺を、秀吉の城を解体して再建するあたりが、家康の性格でしょうね(笑)。

ただしこれまた元々は秀吉が他所から強奪したモノで、琵琶湖南岸、近江の常楽寺にあった門だったとされます。1452(宝徳四)年、室町期の建築とされ、屋根は檜皮葺で、これも瓦は使われていません。

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