その先が總見寺の跡地です。先にも説明したように、幕末の1854(安政元)年に火災があって施設のほとんどを焼失、今の場所に本堂を新たに建てたため、こちらは「總見寺跡地」という扱いになっています。

ただし焼け残った建物が二つあり、どちらも重要文化財になってます。写真はその一つ、三重塔。これも先に説明しましたが信長は速攻でこの寺を建てるため、周囲の寺院から多くの建物を没収、移築したため安土城よりはるかに古い、室町期の建物です。

彦根城の時にも説明しましたが、当時の鉄は貴重品でもあり、鉄くぎは可能な限り使わず、重力の力で押し付けて構造を支える建築になっています。このため、分解、再建は簡単で、こういった移築は普通に行われていました。当然、新築の建物も同じで、ほとんどの部品を準備してから現地に持ち込み、三、四日で組みあげてしまう、というのが普通でした。この点はフロイスも日本史の例の第53章の中で驚きを持って述べています。

なので秀吉の俗説、わずか数日で城を建ててみんなビックリ話は単なる与太話ですね。秀吉の一夜城伝説、墨俣も小田原も、江戸末期の寛政年間に出版された痛快娯楽小説としての「絵本太閤記」あたりが初出であり、当時の記録にそういった話は一切ありません。当時は数日で櫓が建つくらい、別に驚くべきことではないのですから。まあ墨俣の場合、敵地に隣接する土地に建てた、というのが話の中心だったのに、明治以降の口語訳で一夜城としての話が中心にされてしまった、という面があるようですが。



そこから急階段を下った先に、もう一つの重要文化財、二王門があります(表記が仁王では無いのに注意)。こちらは1571年に建てられたものとされており、それが確かなら、新築直後に信長さんに強奪された気の毒な門、という事になります。



石段に当たる西日が反射、ちょっと不思議な光景になってました。これも全体的にほぼ建て直されてるな、という感じですが、状態はいいと思います。



その先の急階段を下ると、最初に立ち寄った百々橋に出ます。信長公記などに見られる百々橋口ですね。

この總見寺はどの宗派にも属さない信長の個人崇拝のための寺でした。本尊は信長なのです。坊主と寺と一向宗徒が死ぬほどキライな信長が、自分の城のすぐ横に寺を建てさせた理由はそれでした。

だったら神社に…と思ってしまいますが、当時は神社も寺も似たようなもんですから、そこまで深くは考えなかったのでしょう。このため、總見寺には「ご神体」がありました。古神道と同じく石で、社殿の一番奥の高い場所に、信長の分身として安置されていた、とフロイスの日本史(55章/第2部40章)にあります。

そして安土城を建てた後の信長は個人崇拝に強くこだわっていました。このため信長公記などを見ると、安土城に登城する外部の人間には必ず總見寺を通過させ、参拝してから城に入るように決めてあったように見えます。ところが信長の勢力圏が広くなるにつれて、その人数が増えたため、この狭い参道は押し合いへし合いの大混雑だったようです。

なので信ちゃん最後の年である1582(天正10)年の正月に配下の大名、織田家の縁者などが供の者を連れて挨拶に来た時は大混雑となった上に、その重みで總見寺の石垣が崩れて死者まで出た、と信長公記にはあります。今では静かな山の中ですけどね。



階段の下から二王門を見上げる。この光景は信ちゃんの時代から、それほど変わってないんだろうなあ、と思うとちょっと感動。
ちなみに先のフロイスの記述によると、總見寺には参拝のご利益がずらっと並んだ板書きがあったそうな。それによると、

■お金持ちが参拝するともっとお金持ちになるよ。貧乏人や下賤の連中でも、ご利益で出世してお金持ちになれるよ。子宝もバッチリさ

■お参りするだけで80歳まで生き(現在の感覚で言うと100歳といったところ)、病気は治るし願いはかなうし健康にもなるよ

■信ちゃんの誕生日は聖なる日だから、かならず参詣しないとダメよ(実際旧暦5月の誕生日には参拝者が殺到したらしい)

■信じる者のお願い事は全部かなうけど、信じない邪悪な馬鹿どもはこの世でもあの世でも滅せられるよ。だからみんな、ちゃんと拝め

と四条の効能書きがあったのだとか。

この辺り、ガタガタいわずにオレ様を崇拝せよ、というよりは大分良心的でしょう。古今東西、独裁者の個人崇拝としては最もそのご利益を保証するものだったかと思われます。さらに信ちゃんはこれでも拝観者が来るか不安だったようで、各地の有名な仏像を強奪してここに並べたんだそうな。

ついでながら長野善光寺の御本尊は、武田が滅んだ時に信長の嫡男、信忠がこれを持ち帰って尾張に安置してるのですが(後に色々あった後、長野に帰還)、フロイスによると、これはパパ信長が總見寺に各地の人気仏像を集めたのを真似たのからだろう、としてます。いい迷惑でしたね、善光寺。ちなみに善光寺側の記録だと犯人は次男の信雄となっていますが、信雄は甲斐討ち入りに参加して無いはずです。

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