坂の途中で見かけたお寺と地名表記。どうみても郊外の川沿い、という土地ですが、もともと五十人衆と呼ばれる足軽が住む屋敷町だった一帯だそうな。 で、ちょっと興味深かったのがこのお寺、來迎寺にあった石碑です。 これですね。かなり風化してますが、かろうじて碑文は読めます。本来なら屋内にて保管するべき、という気もしますが… これはモクリコクリの碑、即ち、むくりこくりの碑とされ、その名の通りなら蒙古・高麗による元寇の戦死者を奉った碑という事になります。ただし碑には延元二年(1337年)八月と明記されており、室町幕府成立の翌年、南北朝時代ですからどう考えても元寇とは無関係でしょう。 注目は延元二年と書かれている点で、これは南朝側の元号であり(足利側の北朝では建武である)、陸奥国の中心地、例の多賀城に居た「太平記」の無敵のヒーロー、南朝側の北畠顕家(あきいえ)が大活躍した時期です(翌年戦死)。このため南北朝の戦いに置ける戦死者を弔ったものだと思いますが、碑文の内容は単純に死者を悼むものだけで、よって確証は無し(厳密には戦死かも不明だが、この時代に年号の入った石碑を立てられる階層は限られ、この点は疑い無いと思う)。 ちなみに、この年の一月に顕家はその本拠地を多賀城から福島の霊山に移しました。そして八月になると「奥州軍」を率いて京に向けて再出撃し、以後、琵琶湖の手前の大垣の戦いまで無敵の快進撃を続ける事になります。よって日付からすると何かその関係のような気がしますが、この点も確証は無し。 ついでに何でこれがモクリコクリと呼ばれるようになったのか、というと実は現存しないもう一つの慰霊碑があり、そちらは弘安10年(1287)年の日付があったから。これは弘安4年の元寇で戦い、戦死した人たちの慰霊碑だったとされ、その横にあったこの碑もまとめて同じな名前になってしまった、と。 ただしそちらの碑は現存しませんし、日付からして、ホントに元寇の時のものか、という点はやや疑問が残ります。 ついでに「むくりこくり」は間違いなく蒙古・高句麗の事ですが、徐々に単に「怖いもの、恐ろしいもの」の意味に転じており、この碑も慰霊碑、死者の怨霊の碑、といった意味で後世に名づけられたものじゃないかなあ、という気も。 まあ、いずれにせよ確証はありませんけどね。 さて、ようやく高台の街道沿いに出る。あ、鳥居が見えますね。 ここが次の目的地、大崎八幡宮です。この鳥居は前日の下見の時も見てますね。 という感じで、今回はここまで。オマケ編は一回お休みです。 |