さて、順路通りに、次の目的地、善応殿と感仙殿に向かいます。この辺りもいい感じで、いかにも山奥という感じですが、この左手のちょっと先には既に住宅街が迫っているのです。
ちなみに、ここら辺りまで来ると樹齢100年級だろうという杉が散見されたので、多少は古木も残っているようです。



さて、こちらが二代目藩主以降が眠る一帯です。政宗の墓所である瑞鳳殿からは100mほど東に位置してます。



入り口はこんな感じ。門周りは戦災以前、明治の廃仏毀釈で破棄されたはずですが、これも再建にあたって復元されてます。



こちらが二代目藩主、忠宗の墓所、感仙殿。本物は1664年に建てられ戦災で焼失し、これは1985年に再建されたもの。



その奥にあるのが三代目藩主、綱宗の墓所、善応殿。写真手前の建物で、これも戦災で焼けたのですが1985年に再建されました。

ただし本来は1716年、バタバタと将軍が変わりまくった(すなわち新井白石の時代である)、徳川家継世代の建築ですから、すでに江戸の幕府も仙台藩も貧乏だった時代であり、こんなに豪勢な建築だったとはちょっと信じられません。なにか根本的に考証の間違いがあるように思うんですが…。

実際、この綱宗の墓所を最後に、以後、藩主の墓所は造られず、大年寺においてただのお墓が造られるだけになってしまいます(仙台市の南に見えるテレビ塔が林立してるのが大年寺山)。
 

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