さて、前置きの最後に仙台地方と宮城野の話を少しだけ。 日本が国家としての基本形態を整えたのは大和朝廷が飛鳥に本拠地を構えた7世紀初頭の段階でした。その段階で、既に日本の多くがこの朝廷の勢力範囲に飲み込まれていたのです。個人的には驚くべき事なんですが、ここではその点は触れませぬ。 そして奈良の平城京に遷都された8世紀初頭には、はるか地の果てである東北地方においても大和朝廷の支配が始まっており、その中心となったのが仙台から東の松島湾南部にかけて広がる広大な平野部、いわゆる宮城野でした。ここが朝廷の支配地の最前線だったのです。ここより北にも城砦は築かれましたが、本格的な支配には至ってませんからほぼこの一帯が大和朝廷の勢力範囲の北限でした。そして言うまでもなく、宮城県の名はこの宮城野から取られています。 現在は仙台市の東側の区にのみ地名をとどめてる宮城野ですが、当時は仙台を含めた一帯の平野全てが宮城野と呼ばれてました。 その地で大和朝廷の東北支配の中心となったのが海沿いにあった多賀城です。のちに多賀国府に変わりますが、当初は大和朝廷の権力が及ぶ北限の最前線であったため城砦だったのだと思われます。そして立地からして街道ではなく、おそらく海路でここに大和朝廷の人々は入っていた可能性が高いでしょう。多賀城は今でも仙台の東に地名として残り、多賀城の跡も残っています。ここが朝廷支配の北限であり、宮城野の中心地だったわけで、そのすぐ東に塩竃市とあの松島湾があります。 その後、江戸期以降になると西の広瀬川沿いに伊達政宗が開いた仙台の街にその中心が移ってしまい、現在に至るまで仙台地区と呼ばれるのが普通になってしまいましたが、この一帯は本来、宮城野と呼ばれ、かつての朝廷と文化人にとって憧れの北の大地だったのです。そして、その流れの中に松尾芭蕉の「奥の細道」もあります。 今回訪問した日本三景の松島。仙台から電車で40分ほど東の場所にある湾です。 行ってみれば判りますが、松島湾は島があるね、島だよね、島だねえ、と言うしかない場所で、別段風光明媚でも何でもない平凡な土地です。特に陸地から見る限り、他に似たような場所なんていくらでもあるじゃん、というものでした。が、平安の昔から雅な土地、北の憧れの名勝として文化人の間の憧れの土地であり続けたのがこの松島なのです。 そして松島で見る月にあこがれて旅に出たと「奥の細道」の冒頭で述べてるように、松尾芭蕉もその一人でした。ところが彼は現地では全く発句しないまま立ち去ってしまいます。これを感動のあまり句ができなかったのか、行ってみたらガッカリで立ち去ったのかは微妙なところですが、とにかく句にまとめられなかったのは事実です。 (有名な、松島や、ああ松島や、松島や、の句は芭蕉の作では無い。別人の作品を後世に取り違えたもの。そもそも季語が無いのだから俳句ですらない) そんな松島が日本を代表する景勝地の一つとなったのは、先に述べた宮城野の影響でした。この点を知らないと、これが日本を代表する名勝だなんて昔の人って馬鹿なの?という感想だけを持って帰ることになるでしょう。 道の奥(街道、海道の最果て)から転じて陸奥(みちのく)とされ、それを「むつ」と呼び、これが東北を意味するにようになったのですが、平安期まで陸奥国と呼ばれたのは福島から宮城県辺りまででした。すなわち宮城野はその最北限だったのです。 大和朝廷は米の朝廷であり、稲作の普及とそれを通じた土地の支配が原動力でしたから、当時の米作には向かなかったここより北には興味を示さず、蝦夷、いわゆるアイヌを中心とした大和朝廷に属さない人々の土地として放置したのでしょう(先にも述べたように点を支配する城砦は築いてるが)。中央政権が本格的にここからさらに北の支配に向かうのは鎌倉時代以降となります。 このため奈良時代から平安期の王朝文化にとって、陸奥の宮城野といえば日本の北限の大地であり、はるか遠くにあるロマン満載の平原という存在になって行きます。現代で言えば北海道のニセコ、あるいは長野の上高地のような、ロマンチックな雰囲気を持つあこがれの風光明媚な北の大地だったのです。このため、何度も和歌に登場し、明らかにあなた行ったことないでしょ、という人々まで宮城野を歌い上げたため、その地名は歌枕、和歌の題材としてよく取り上げられる題材の一つとなってしまいます。 その憧れの北の大地、宮城野のすぐ横にあったのが、この松島でした。このため美しき大地、宮城野のすぐ側の景勝地としていつの間にか想像が膨らんで、夢のように美しい風光明媚な土地とされてしまった、という面が少なからずあるのです。奈良から平安期の文化人、それどころから江戸期まで下っても、実際に見た人は限られますから、その間にどんどん夢と希望が膨らんで、そのイメージだけが独り歩きしてしまったのがこの松島である、と考えるべきでしょう。この辺り、昭和の時代の日本人がパリやハワイといった海外の土地に対して抱いた憧れに似てる気もします。 ところが江戸期に独眼竜の伊達政宗が平野のより西側、仙台に城を構えて以降、かつての宮城野への憧れはいつの間にか消え去ってしまいます。芭蕉のような文化人だけがかろうじてその流れを受け継いでいますが、明治期にはもう誰も宮城野と聞いて、素敵な北の大地、といった印象は持たなくなっていました。それどこから白河の関から先、東北の地は山しかない田舎といった印象が独り歩きしてゆきます。 しかし、かつて宮城野といえば文化人全ての憧れの風光明媚な北の大地であり、現代の日本人が仙台と聞いて、牛タンとずんだ餅だな、と思うような世界とはまるで異なる印象を持たれていたのに注意してください。 この前提でこの旅行記も進みますので。 といった辺りで前フリは終了、次回から本編に入ってゆきまする。 |