今回、企画展示室でやっていたのがこれ。右から古寧頭(グニントウ)と読み、例の台湾本島のはるか西、中国本土の目の前にある島、金門島の北東地区の地名です。

国民党軍が中国本土で共産党軍に惨敗、本土から掃討されつつ台湾に逃げ込んだのは前回の旅行記で説明しました。その直前に最後まで国民党の支配下にあった金門島で起きた戦いをその激戦地の名にちなんで古寧頭戦役と呼ぶのです。

1949年10月に共産党軍がここに到達、上陸作戦を開始します。ちなみに誤解無きよう書いておくと、この段階ではまだ国民党軍は重慶に立てこもっており、台湾に逃げ込むのはこの年の12月になってからです。なのでこの段階では台湾本土防衛線、といった側面は持ちません。
金門島は島と言っても湾内に浮かぶもので中国本土から10qも離れておらず、中国軍は渡海能力を持たないものの、上陸戦は可能と見られてました。よって金門島は共産党軍に落とされるのは時間の問題と考えられていたのです。というか、厳密には金門島の対岸にある都市、厦門の攻防だったのが、勝ち目が無いと見た国民党軍が湾内にあった金門島に拠点を移したのです。この拠点移動に関しては後述の根本さんが深くかかわってるとされます。

そして金門島の守備隊は3日間の戦闘の末、共産党軍を撃退、金門島を死守してしまうのです。これは負け戦続きだった国民党軍の数少ない、そして最後の(涙)勝利だったため、台湾ではよく取り上げられます。
ただしこれをもってして国民党軍が反撃に転じた、といったようなことは全く無く、以後はまた負け戦続きで翌1950年6月に朝鮮戦争が始まって、中国が台湾から一時興味を失うまで、負けて負けて負けまくるのが蒋介石率いる国民党軍なのです。
実際、台湾に匹敵する面積を持つ島、海南島は朝鮮戦争直前、1950年4月まで国民党の支配下にありながら、これを共産党に奪われてしまってます。すなわち、こちらでは共産党軍の渡海作戦は成功してるのでした。



その古寧頭戦役の部隊となった金門島の地図。目の前の中国本土までは7q、島伝いに来ればもっと短い距離でここに到達できました。
ただしこの地図、かなり適当で、おおよその目安にしかなりませんから注意。なんでこんなもの展示してんだ、というレベルです(笑)。

右側の大きな島が本島で、左の少し距離が離れた島までが台湾領なんですが、左側の島は実際はもっと小さいですし形も違います…。国民党のことだから、まともに測量とかやってなかったんだろうなあ…。
ちなみに両者を合わせるとほぼ150平方キロメートル強で、沖縄の宮古島、あるいは瀬戸内海の小豆島と同じくらいになります。それなりの面積と考えていいでしょう。

本島の北西部の岬一帯が例の古寧頭地区で、ここで3日間に渡って上陸した共産党軍と国民党軍が死闘を繰り広げ、最終的に退路を断たれた9000人前後の共産党軍部隊はここで壊滅します(半数以上が捕虜になってるが生きて帰れたのかは判らない。本土に帰ったところで朝鮮送りにされて恐らくほとんどが1955年以降まで生きてられなかったはずだ)。

余談ですが、この古寧頭戦役には国民党軍側についた日本軍顧問の活躍があった…と日本語の資料ではほぼ必ず出て来ます。元日本陸軍中将 根本博さんの事ですが、ここの展示では全く触れられていません。ついでに帰国後、英語圏の資料も見て見ましたが、Japan のJの字すら出て来ませんでした。

が、近年の研究資料をざっと調べてみると、台湾側の研究でも古寧頭戦役には根本さんがかなり深く関わっていると述べているものがあり、実際、この戦い以外の国民党軍の弱さを考えると、その可能性は高い気がします。ちなみに根本さんは戦後現地に抑留されたのではなく、駐蒙軍司令官として内モンゴル周辺から現地の日本人と軍を撤収させた後、無事帰国、引退生活を送っていた元軍人さんです。

この中国北方からの日本人撤収の時、国民党軍は意外にも好意的で、これが多くの邦人が無事帰国できることに繋がりました。司令官としてこの時の恩義を感じていた彼は、中国の国民党軍が共産党軍に追い込まれたのを見て密航で台湾経由で中国に渡り、その軍事顧問に就くのです。それでこの古寧頭戦役で勝っちゃうのですから、スゴイ人なんですよね、この人も。ちなみに林保源の偽名を名乗っていたので、資料によってはこの名で登場します。その後、国民党軍の敗北が決定的になり、同時に台湾がほぼ安泰となった1952年6月に帰国、密出国だった上に軍事に関係した事で、当時の国会でも問題になったため、以後はほぼ沈黙を守って亡くなっています。



展示にはU2偵察機の写真も。

ただし、これが活躍するのは、この戦役の約10年後、1958年に起きる金門島砲撃戦(金門島事件)以降なんですけどね(笑)。そもそも初飛行は6年後の1955年ですし。
が、アメリカ以外で最もこの機体を運用したのは台湾なのも事実で、意外に見たこと無い写真とかあって資料性は高かったです。ついでに中国本土で撃ち落とされまくったU−2は全てが台湾空軍の運用によるものでした。いわゆる黒猫部隊、Black Cat Squadronですな。

さらについでに中国本土で撃墜された台湾のU-2は確認できるだけでも5機、内3人のパイロットが死亡しています。が、それ以前にアメリカ本土での訓練飛行中に7機が墜落、6人が死亡してまして、ああスカンクワークスの開発した機体だなあ、という感じになってます。
ケリー・ジョンソンは私はあまり評価できない設計屋だと思うんですよねえ…



個人的にもう一度見たかったもの、マウザーC96 7.63oマシンピストルのカービン(騎兵小銃)型。
いや、マウザーは拳銃(ピストル)じゃん、と思うんですが、それに長銃身と固定用の大型木製ストックを付けて騎兵小銃にしてしまったもの。無茶苦茶ですが、個人的には大好きです、これ(笑)。まあ、マシンピストルだからデカい弾倉つけてサブマシンガンにする、くらいまでは理解できるんですが、騎兵小銃にするか、ドイツ人。

拳銃型のC96にも後部の木製ストックが付けられますが(これがホルスターにもなっていてC96を中に収容できる)ずっと小型ですし、取り外しが可能ですが、こちらは固定式になってます。このためグリップとストックは一体で拳銃本体から外せるようになっており、分解した状態で専用の大型ケースに入れてました。

1899年ごろに1000丁前後のみ生産された型とされるので、どういった経路で台湾に来たのかも気になるところ。ちなみにアメリカのオークションだと1万2千ドル前後と、かなりいいお値段が付いてます(オリジナルのC96だと3500ドル位)。



今回、最大の変化が一階、入り口横のこれ。
元々は我らの蒋介石閣下がお馬さんに乗ってるカッコいいはずのデカい絵が飾ってあったのですが、それが消えてコインロッカーになってました。いい感じです。

ちなみに館内にバッグ類は持ち込めないので、必ずここに預ける必要がありますが、両替機が無いので小銭必須です。ちなみに利用後はコインが戻って来るタイプでした。


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