1992年をもって二度目のF−1撤退を決めたホンダですが、1998年までで社長からの引退を決意した川本さんが、退任と引き換えに第三期F-1参戦を発表しました。当初は2000年からコンストラクターとして、すなわち第一期ホンダF-1やフェラーリのように車体からエンジンまで全てホンダチームで始める、という話だったのですが、結局、川本さんの跡を継いだ第五代社長、吉野さんがこれを拒否、新興のBARチームにエンジン供給での参戦という話になります。ちなみに川本さんの社長任期8年は本田宗一郎司令官を別にすると二代目社長 河島さんに次ぐ歴代二位の長さでした。
その後、2000年から2008年まで9年に渡りホンダは第三期F-1活動を続けるのですが、その間、コンストラクター&ドライバーズチャンピオンどころか、まともに勝つことすらできない低迷ぶりを示し、ホンダと言えば中団から底辺をウロウロしてる二流エンジンメーカーという悲しい印象が定着します。結局、9年間で1勝したのみという、第一期よりお粗末な結果を残して撤退することになりました。
ちなみに最初に拒否したはずのコンストラクターとしての参戦にまで最後は踏み切りながら、それでも勝てなかったのです。
ちなみにほぼ同時期、同じ日本からトヨタもF-1に参戦します。
そしてこちらも2002年から2009年まで8年もF-1に参戦しながら1勝もできず、強欲なヨーロッパ人関係者に騙され、気前よくヨーロッパ相手に金ををばら撒いて終わる、というブザマな結果に終わってました。世界最大級の自動車メーカーが膨大な資金を使ってこれだけ無駄な事をやった、という事例は人類の偉大な愚行の一つとして十分、研究に値しますが、私は虚し過ぎて調べる気にもなりません。
また、2000年代には複数の日本人F-1ドライバーが活動していたのですが、これまたチャンプどころか1勝すら上げてません。ちなみに日本人ドライバーの最高位は3位で、過去に3人がこれを成し遂げてますが、それは2位ですら誰も獲っていない、という事を意味します。…要するに2000年代は日本のF-1暗黒時代だったのでした。
私が2004年前後を最後に全くF-1を見なくなった理由はフェラーリのシューマッハが強すぎてつまらない、というのと同時に膨大な金を使って同国人が恥をさらしに行ってるのを見るに堪えなかった、というのもあります。勝負の世界は結果が全てです。結果が出せないなら全て負け犬で、本田宗一郎の名を持ったホンダがブザマな負け犬になるのを見るのは私には耐えられませんでした。
そして第三期の最後、2008年の撤退は今度は本当に経済的な理由でした。同年のリーマンショックをきっかけに売り上げの悪化からホンダは一度もチャンピオンを獲れないままF-1を去るのです。第二期の引き際の見事さに比べて、なんとみっともないのだろうと思ったのを今でも鮮明に覚えています。
ちなみに1992年当時、見事ともいえる第二期撤退を決めたF-1番長 川本さんの発言が、「F-1 地上の夢」の文庫版あとがきで紹介されてますので、ここに転記しておきます。
「ボクはとにかく何がなんでも勝ちたいという事で十年間やってきましたけど、もうひとつのやり方として会社の中やF-1界全体のバランスということを考えて、適当な力でやるという方法もあったと思ってます。それもひとつの考え方です。でもそういう方法でやって、十年間勝てなかったらどうなっただろうと思うんですよ。きっとバカじぇねえかと言われたんじゃないかと思うんです。だから人はなんというか知りませんが、勝ってよかったと思ってます」
私もその通りだと思います。
なので「バカじゃねえか」と言わせてもらった上で、ホンダの悪夢、第三期F-1を振り返って行きましょう。ついでに公平を期すために述べて置くと、この時期のトヨタはさらに「バカじゃねえか」でした。
ホンダが2000年に復帰した時のエンジン、RA000E。
自然吸気V10気筒、3000ccで、800馬力は出ていたとされます。V字の両シリンダーヘッド上に黒い謎の部品が乗ってますが正体はよく判らず。普通に考えれば電子制御のインジェクション(機械式噴霧)関係だと思いますが…。
ついでに従来のホンダの命名なら、F-1の1、気筒数の一桁で0、西暦の最後の一桁で0、すなわちRA100Eになるはずなんですが、展示での解説板では000となってました。理由は不明。そして調べる気もおきませぬ。
2002年のジョーダン・ホンダ EJ12。ホンダ参戦三年目のマシンですが、何も書く事がないです(笑)。
この頃はまだF-1見てたはずなんですが、全レースは見て無かったし、とにかくホンダは後ろの方でチョロチョロ走ってる、という印象しか残ってません。
ちなみにホンダはBARへのエンジン供給も続けており、2001、02年はジョーダンと二チームへの供与でした。
ジョーダンにエンジン供与を行った理由は無限エンジンの撤退です。1992年から2000年までの9年間、ホンダと関係の深い無限がF-1に参加しており、ジョーダンは1998年から2000年までそのエンジンを使っていたのです(無限はホンダ撤退の1992年、復活の2000年の2年だけホンダと共に参戦)。
ちなみに無限のエンジン設計にもホンダの設計チームが参加してるのですが(無限からも参加して共同チームだった)、予算、規模に関してはホンダ時代とはケタ違いの小さな活動でした。それでも無限は9年間で4勝を上げてます。第三期F-1のホンダの予算をそのまま無限に廻して居れば…という気が、正直、しなくも無い部分です。
実際、1999年には無限エンジンでフレンツツェンが2勝、3位三回を獲ってドライバーチャンプで3位に入ってました。この時は同僚の元世界チャンプ、ヒルが不調で優勝どころか表彰台にすら上がれず、さらにリタイアを連発したため、コンストラクターチャンピオンでは3位に終わったのですが、ジョーダン・無限は間違いなく1999年のトップ集団チームの一つでした。
ただし翌年2000年は不調で3位二回だけ、さらにリタイアの嵐でコンストラクターチャンピオン6位に沈んでしまうのですが…。それでもホンダエンジンに切り替えた2001、02年は一度も表彰台に上がれないまま終わってますから、まだマシだったのです。
ちなみに第三期のホンダ、そして2000年代のトヨタのF-1、ともに予算でも規模でも劣る無限よりお粗末な成績しか残せてません。レースは金さえ出せば勝てる、という世界ではなく、やはり勝ちたいという信念とリーダシップを持った人材がモノを言う世界のようです。第三期のホンダには、川本さんも桜井さんもおらず、それに代わる人材も出てこなかったのでした。
ついでに翌2003年にホンダの社長は6代目の福井さんに交代するのですが、この人も研究所社長→ホンダ本社社長のルートでトップに上り詰めた人でした。研究所社長になった1998年に第三期F-1の準備責任者となっていたのがこの福井さんであり、その結果がこのザマだったわけです。
F-1の参戦準備を指揮し(というか勝手に始めちゃったんだけど)、その後、F-1参戦中に社長となったのはF-1番長 川本さんも同じですが、川本さんが社長になった時にはホンダのF-1は絶頂期を迎えていたわけです。ちなみに就任中の2008年にF-1撤退を発表をした、という点でも福井さんは川本さんと同じですが、前者が惜しまれながら、後者が今さらかよ、という空気の中であったのも対象的でした。
…何事にも勝つための優勝な人材ってのはあらゆる面でホントに重要なんですよ。桜井さんがホンダに残っていればねえ…。
正面から。この頃から空力部品が徐々にゴチャゴチャして来てますが、まだ見れるかな、という感じです。
…えー、他には特に書く事が…。とりあえず、どこにもゼッケンが無いのですが、現地の解説板によると、この年ジョーダンからデビューした日本人ドライバー、佐藤琢磨選手の車らしいです。後にインディ500を制した日本人となる方ですが、F-1では散々で、後に3位に一度入ったのが精一杯でした。
なので余談を少し。
ホンダが当初コンストラクターの参戦準備で用意した車は1999年にテスト走行まで行っていたのですが、この時のテストドライバーはヨス・フェルスタッペン、すなわち2019年以降のレッドブル・ホンダのドライバー、マックス・フェルスタッペンのお父さんでした。
ちなみにヨスはレーサーとしてはほぼ三流でしたが、結婚だけは得意で何度も成功しており、F-1ドライバーの中でもトップクラスの二度の離婚と三度の結婚を達成してます。ちなみにマックスは最初の奥さんの子供です。ついでに暴力事件も得意な人で、何度も問題を引き起こしてます。
2004年のBAR
ホンダ006。
車体後部とか、徐々にゴチャゴチャしてきてますが、まだ見れます。というか、個人的に第三期のホンダの中では一番カッコいいと思ってる車です。
この年は佐藤琢磨選手がアメリカGPで3位表彰台を獲得、BARはコンストラクターズ2位を獲得、と書くとなんか凄そうですが、実はそうでもないです(笑)。2004年はシューマッハのフェラーリが圧倒的に強く、18戦13勝の圧勝でドライバーズチャンプを獲り、同僚のバリチェロも2勝して全15勝を収めた年でした。残り3勝はルノー、マクラーレン、ウィリアムズが1勝ずつで、すなわちBARホンダは1勝もあげてないのです。
後の2009年、ブラウンチームでドライバーズチャンプとなるバトンが2位4回、3位6回、さらにリタイアしたレース以外で全戦入賞と安定した成績を残したものの最後まで勝てず、同僚の日本人、佐藤琢磨選手に至っては、ようやく3位を一回を獲っただけ、後は入賞圏に8回入っただけで終わってます。
バトンの安定した成績でコンストラクターチャンピオンで2位を確保したとはいえ、1位フェラーリが262ポイントに対して半分以下の119ポイントの2位、さらに3位のルノーとは14ポイント差でしかないので、まあ大活躍とは言い難いものでした。そしてこのトップから半分以下の得点で2位が第三期ホンダの最高順位だったのです。
余談ですがバトンがチャンプを獲ったのは2009年、ホンダが撤退した翌年ですが、それはホンダのチームを引き継いだブラウンから出走しての結果でした。そしてブラウンは2010年からは自動車メーカーのメルセデスのチームとなり、その5年後の2014年から2020年まで2000年代のフェラーリと並ぶ6連覇を成し遂げました(2009年のブラウンもメルセデスエンジンだった)。
なのであと1年、ホンダが頑張っていればチャンプを獲れた…とする向きもありますが、私はむしろホンダが抜けてチームが本来の強さを発揮した結果ではないかと思ってます。あのまま参戦を続けても勝てなかったでしょう。指揮をとる頭となる人材がいないのですから。
ついでに余談ですが、第二期F-1の黄金期の基礎を造ったエンジン設計屋、市田さんが2019年に自動車技術会のインタビューに答えて「結局、人なんです。人が育たないと」と述べています。市田さんの場合、指揮官ではなく技術屋としての意味だと思うんですが、そう考えるとこの時代以降のホンダの悲惨さがより際立ちます。なんでこんな会社になっちゃったんでしょうね…。
さらに余談ですが、この市田さんのインタビュー、私が第二期F-1の記事をほとんど書き終えてから発表されたため、記事中にその情報が反映されておりませぬ。
でもって、このインタビューによると例の新世代エンジン、小口径ロングストローク ターボエンジンの開発は川本さんだけではなく桜井監督も知らないうちに市田さんの独断で行っていたとされます。これは「F-1地上の夢」「ゼロからの挑戦」といった当時の関係者の証言とは全く異なる内容になります。
それによると1984年に行われた反省会において川本さんの方針に誰も反対せず、従来のエンジンのママ行く事になり、それに疑問を感じた市田さんが独断で新エンジンの設計を始めた、としてるのです。
が、1984年の反省会が新型エンジンを主張する桜井さんと、それに激怒した川本さんの激論になったのは両者が証言してますから間違いなく、どうもこの話は市田さんの記憶違いではないか、と思われます。実際は桜井さん、後藤さんと言ったメンバーも承知の上で、川本さんだけを蚊帳の外に置いて新型エンジンを開発した、という従来の説を私は支持して置きます。
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