そして運命の1985年で最大の難関となったのが後輪サスペンションの問題でした。
ちなみに1985年型のFW10はウィリアムズ初のカーボンモノコックシャシー(車体)で、ホンダコレクションホールも一台持ってるはずなんですが、残念ながら今回の見学時に展示はありませんでした。
ホンダの新型ターボエンジンが第5戦カナダGP
から投入されるとウィリアムズの戦闘力は大幅に向上したのですが第8戦フランスGP以降はリタイアが連発、表彰台にすら上がれない状況になってしまいます。
これはエンジンの強い力が加わると後輪サスペンションがねじれて沈み込む欠陥が原因でした。ホンダのエンジンのパワーが上がった事で皮肉にもその欠点がより顕著になってしまったのです。桜井さんによるとエンジン屋の人間が見ても明らかに車体の前後輪の沈み込みバランスがおかしく、加速時にリアサスペンションが強くねじれて下に押し込まれるのが見て取れたそうな。
この欠陥のためアクセルを踏んで加速すると車体のケツが沈み、その反動で前輪が浮いてしまう症状が出ます(軽いウィリー状態である)。こうなるとカーブからの脱出時にアクセルを踏むと前輪が浮いてまともに接地し無くなり、その結果、いくらハンドルを切ってもキチンと曲がれません。すなたわち超アンダーステアの車になってしまうのです(余談だけどハンドルも和製英語。英語圏ではsteering
wheel。ホントにカタカナ英語スキーの皆さんは何とかしたいところなり)。
そうなると、もはやまともに走れないので、後輪サスペンションの沈み込みを抑えるためバネを固くしたのですが、これによってよりねじれで加わる力のほとんどを後輪タイヤが受ける事になり、より強く地面に押し付けられる事となりました。その結果、タイヤの摩耗が急激に進む、最悪の場合は破裂する、という悪循環に陥る事になります。それを防ぐには頻繁にタイヤ交換を行うしかなく、これは当然、大幅な時間浪費を伴いますからまともなレースにならないのです。
それでもこの欠陥が出にくい、すなわちカーブが少ない直線主体のサーキットではホンダエンジンの高馬力化によってウィリアムズはベラボーに速くなっていました。代表的な高速サーキット、イギリスGPのシルバーストーンでFW10は当時のF-1における平均最高速度を大きく上回る258.88km/hを記録、レース後に規則違反の疑惑を持たれて主催者によるエンジンの分解検査が行われたほどでした(違反なしの無罪に終わるが)。
ただしそんなサーキットですらカーブや加速時の後輪の負担は大きく、ロズベルグなどはこのGPで複数回のピットインとタイヤ交換を行った挙句に最後はリタイアと言う状況に追い込まれています。このレースでは同僚のマンセルもリタイアになってますから、散々な結果でした。
この問題の解決のため、ホンダの桜井さんとウィリアムズチームは1985年の夏ごろから話し合いを始めるのですが気難しいチームのボス、フランク・ウィリアムズがホンダからの車体改善要請に反発、車体の改造を渋ったため両者の意見は対立します。この辺りのウィリアムズのやる気の無さが後に、桜井さんがウィリアムズとの1988年以降のエンジン供給契約延長を拒否する伏線にもなりました。 ちなみにほぼ同時に前回見た土師(はじ)さんの現場監督解任騒動とロズベルグの契約問題が起きており、ホンダにとっても桜井さんにとっても最後の産みの苦しみに見舞われていた時とも言えます。
ここで登場するのがホンダの、すなわ日本人初のF-1車体設計者だった佐野さんでした。 第一期F-1終了後の佐野さんは市販車の開発に戻り、当時は四輪操舵、いわゆる4WSの開発を主に担当していました。それがこの問題解決のため、ホンダ側の車体設計専門家としF-1の現場に呼び戻される事になったのです。空冷F-1の設計から19年ぶりの事でした。すでに研究所の取り締まり役の一人となっていた佐野さんですが、依頼を受けて8月18日のオーストリアGPで現地に入りし、ウィリアムズの車を観察、後輪サスペンションの取り付け部の基本設計、ジオメトリーが完全に狂ってる事を発見します。
ホンダエンジン時代のウィリアムズの後輪サスペンションは泣き所の一つで、一定の改良はされたものの、最後まで完全には解決されなかったと思われます。
さらにこの1985年の場合は、ドライバーにも問題がありました。ロズベルグとマンセルはどちらもバンとアクセルを豪快に踏んで加速し、ドンと豪快にブレーキを踏んで止める力業型のドライバーだったので余計に後輪へと負荷がかかり、これが問題を悪化させていた面もあったと思われるからです。さらにマンセルの場合、力技でハンドルまわして車をねじ伏せて曲がって行く、というスタイルでしたから、アンダーステアの問題も深刻だったと思われます。
写真はこの翌年、1986年のFW11の後輪サスペンション。この年のサスペンションでは後輪の負担は軽減されてたはずなのですが、最後の最後、あの伝説のオーストラリアGPが行われたアデレードで後輪タイヤの問題が考えられる限り最悪の形でウィリアムズとマンセルに襲い掛かります。
ちょっと先走りですが、この事にも少し触れて置きましょう。
1986年最終戦オーストラリアGPに、マンセルは4位以上で入賞すればドライバーズチャンピオン決定と言う圧倒的に有利な状況で臨みました。レースが始まるとこの年にマクラーレンに移籍、すでに年内一杯で引退を表明していたロズベルグがぶっちぎりで1位を快走、2位以下を寄せ付けずに独走します。一方のマンセルは一時、ギリギリの4位に沈むのですが、あせらずその順位を維持し続けました。それで十分、年間チャンピンを獲れたからです(それでも最終的には2位にまで上がる)。
しながら63週目に首位を快走していたロズベルグの後輪タイヤが突然破断(破裂ではなく一部が千切れて剥離した)してリタイア、その直後にウィリアムズのマンセルの後輪が破裂(バースト)、これもリタイアしてししまう大波乱のレース展開となります。
最後はガス欠直前だったマクラーレンのプロストが(ゴール直後に停車して動けなくなる。走りきれたのはほぼ運だった)、マンセルのバーストを見てタイヤ交換のためにピットに入ったウィリアムズのピケを振り切って勝利を収めてしまうのです。この結果、年間獲得得点でマンセルを逆転、二年連続ドライバーズチャンピオンを決めてしまう、という奇跡のようなレース展開になったのでした。いわゆる伝説の1986オーストラリアがこれです。ちなみに当時はまだ日本ではF-1中継は無く、私がこのレースを初めて見たのは1990年代にビデオででしたが、なるほどこりゃ伝説になるレースだわ、と思ったのを覚えてます。
つまり路面が厳しい1986年のアデレードで、1985年のウィリアムズのコンビは両者とも後輪に負担のかかる走りをし、その結果、タイヤをダメにしてリタイアに追い込まれたのでした。1985年のウィリアムズでは、その二人が欠陥を持つ後輪サスペンションの車を運転してたのですから、そりゃまともに走らんわ、という事になります。
この点を詳細に検討した佐野さんは、桜井さん、市田さんと共にウィリアムズチームの説得に当たる事になります。ちなにに桜井さん市田さんはこの時、もしウィリアムズがこれ以上ホンダの意見を無視するのなら独自の車体を設計、再びホンダチームでF-1を戦いたい、と言い出すのですが戦闘力のあるシャシーの設計には3年以上かかるとして佐野さんは反対したようです。もっともこの辺り、どこまで彼らが本気だったのか詳細は不明なんですが…。
こうして世界的な自動車メーカーの車体設計のエースを送り込むことで、ホンダはウィリアムズにサスペンションの設計変更を迫り、そのための対策会議がオーストリアGP終了直後にイギリスのウィリアムズ本社で行われます。ホンダ側は桜井さん、佐野さん、そして恐らく市田さんが、ウィリアムズ側からはオーナーで最高責任者のフランク・ウィリアムズ(Fank
Williams)、設計責任者(カタカナ英語スキーの皆さんが言うところのチーフデザイナー)のパトリック・ヘッド(Patrick
Head)、そして何人かの技術者が参加しています。
ちなみにヘッドは短気で声が大きいことで有名な男で、この時の会議でもホンダ側の参加者相手に怒鳴り合いを演じてます。ホンダ側の桜井さんも、怒鳴られて黙ってる人ではないですから、エライ会議になったようです。川本さんだったら、さらに状況は悪化していたかもしれません(笑)…。 そもそも、20世紀後半のイギリス人とフランス人はおよそ半分以上が馬鹿なので(だから今のヨーロッパの凋落がある)、ヘッドも人種差別主義的な部分があった臭いがします。白人が東洋人にナメられてたまるか、という、この時代のF-1業界によく見られた馬鹿欧州人の一人の可能性が高いように見えるのです。
それに加えてヘッドは1980&81年にウィリアムズがコンストラクターズチャンプを獲った車の設計者である、というプライドもあったので(フォード・コスワースエンジンの全盛期だからほぼ車の設計の良さだけで勝ってると見てよい)会議は迷走します。それでも最終的にはどっちを見ても頭に血が上りやすい連中の中で、最初から最後まで冷静だった佐野さんの説得によりウィリアムズもヘッドも折れて、車体とサスペンションの改良を受け入れて終わるのでした。
が、すでに8月中旬の段階であり、シーズン真っ最中の設計変更は難航したようです。結局、改良型サスペンションを搭載した車、FW10Bが走れるようになったのは9月下旬でした(ウィリアムズはシーズン中に車体に変更を加えた場合、名前の最後にBの字を付けて区別する)。ちなみにサスペンションだけではなく、ギアボックス、車体後部のカウル(車体の覆い部分)にも変更が加わってます。
その後、最低限のテストだけを行い、10月6日の第14戦 ヨーロッパGPより投入される事が決定されました。残り3戦ですから、この辺りで投入しないともう時間が無いのです。ちなみにこの年のヨーロッパGPはイギリスのブランズハッチで開催され、ここはカーブの多い中低速サーキットでしたから、その性能確認には最適な場所だったと言えます。
ここで1985年のウィリアムズ ホンダの戦績をもう一度、しておきましょう。
GP |
ケケ・ロズベルグ |
ナイジェル・マンセル |
1.ブラジル 4/7 |
リタイア |
リタイア |
2.ポルトガル 4/21 |
リタイア |
5位 |
3.サンマリノ 5/5 |
リタイア |
5位 |
4.モナコ 5/19 |
8位 |
7位 |
5.カナダ 6/16 *新エンジン投入 |
4位 |
6位 |
6.デトロイト 6/23 |
優勝 |
リタイア |
7.フランス 7/7 |
2位 |
予選落ち |
8.イギリス 7/21 |
リタイア |
リタイア |
9.ドイツ 8/4 |
12位 |
6位 |
10.オーストリア 8/18 |
リタイア |
リタイア |
11.オランダ 8/25 |
リタイア |
6位 |
12.イタリア 9/8 |
リタイア |
11位 |
13.ベルギー 9/15 |
4位 |
2位 |
14.ヨーロッパ 10/6 |
3位 |
優勝 |
15.南アフリカ 10/19 |
2位 |
優勝 |
16.オーストラリア 11/3 |
優勝 |
リタイア |
その第14戦ヨーロッパ以降の驚異的な成績に驚いて下さい(笑)。
もしサスペンションの改良がもっと早く行われていれば、コンストラクターズチャンプも夢では無かったはず、というのが見て取れ、やればできるのにやらないウィリアムズの悪い面が出ている、とも言えます。
新型サスペンション搭載車のデビューとなったヨーロッパGPでは、それまで後輪の摩耗から何度もピットでタイヤ交換を行っていたマンセルが無交換のまま走り切って自身の初優勝(デビューから72戦目で当時は最も遅い勝利達成記録だった)を地元イギリスで決めます。
さらに途中でまたスピンして(笑)一時は23位まで順位を落としたロズベルグが怒涛の追い上げを見せて3位に入賞、ホンダエンジン初の二台同時表彰台を決めてしまうのです。それまでの悪戦苦闘がウソのような展開でした。ちなみにこのレースでマンセルは6位以下を全て二周以上の周回遅れにしてしまう、という圧勝ぶりを見せています。
ついでにこのレースでマクラーレンの“プロフェッサー”プロストが4位入賞ながら自身初となるドライバーズチャンピオンを決めました。当時の表彰式の映像で4位で表彰台圏外はずのプロストがウロウロしてるのはこれが理由です。これはフランス人初のドライバーズ チャンピオンであり、未だに唯一のフランス人チャンプでもあります。
その後の南アフリカ、オーストラリアでもウィリアムズは連勝を決めます。
最終戦の段階ではホンダもウィリアムズも自信満々で、エンジン設計者の市田さんによれば「ドライバーもチームも、もう勝って当然という気分で負けるなんて誰も思わなかったですね」というほどの勢いになっていたそうな。僅か一年前のホンダの苦悩、大口径派と小口径の対立などを思い出すと夢のような状況だったと言えます。その勢いを持って始まるのがホンダが初のコンストラクターズチャンプを獲る、翌1986年なのです。まあ、ドライバーズチャンピオンは先に見たオーストリアGPの悲劇で獲れずに終わるんですが…
ちなみに1985年の最終段階でホンダのターボエンジンはすでに800馬力と旧エンジンより200馬力強力で、それでいて燃費は15%もいいのになってました。さらに燃費と耐久性を気にしない短距離勝負の予選では1000馬力まで出していたとされます。その後も改良は続き、後に1987年に至るとレースでも1000馬力、予選では1500馬力超えエンジンという21世紀に至っても二度と訪れない狂気の世界が展開する事になります。私がこの時代のF-1が好きなのはホンダの活躍と共に、そういった狂気の中で展開されたから、という面もあります。そういった意味でもこのターボエンジンの全盛期はF-1の歴史において特別な存在となっているのです。
といった感じで今回はここまで。
|