今回の最後はこの1985年、ホンダ黄金期の始まりを告げる事になった年の状況を少し詳しく見て行きましょう。
1985年は前半の不調もあり、チームのコンスタントラクターズ順位は3位(ロータスと同点だったが優勝回数で上回った)、ドライバーもロズベルグが3位に入るのが精一杯でしたが、どちらもホンダのF-1活動の中では最高位でした。しかもシーズン後半の3戦では3連勝、ワンツー フィニッシュ(1位2位独占)も一回と大活躍を見せて翌年の活躍を期待させるには十分な結果を残します。

そしてこの年からホンダの体制も大幅に変更が加わってました。前年の終盤戦から「総監督」に就任した桜井さんの要求により予算、人員が大幅に増えていたのです。すなわち開発チーム、そして現地のチームの増強に加え、世界を網羅する物流から部品の備蓄までF-1で戦うための体制が整いつつあったのがこの年でした。余談ですが、この段階で桜井さんがやったこととアメリカが第二次大戦突入する直前にアメリカが、というかルーズベルトがやった事が驚くほどよく似ていて(生産開発の強化と世界的な輸送網の設立)個人的には興味深いなあ、と思っております。

とりあえず本格参戦の初年1984年のホンダF-1チームの人員は約40名、年間予算は30億円でした。1980年に川本さんの趣味の範疇でF-2参戦を開始したころから考えれば大幅な増加を見ていたのですが1980年代のF-1は1960年の比ではないくらいに金も人も掛かると既に川本さんは気づいてました。すなわちこのままではダメだ、と見ていたのです。
このため、同年末に桜井さんが本気で勝つなら最終的に1984年の倍の予算と人員が必要であり、とりあえず1985年は1.5倍に増やしたい、と要求して来た時、川本さんは本気で勝つならそれも必要だとあっさり受け入れます。そしてそのまま本社の経営会議に持ち込むのです。

ちなみに、これらのやり取りは全て例の新型エンジンを巡って大喧嘩した後に行われてますから、両者はエンジン開発の方針を巡って対立中でした。そんな時でも臆せず上司に自分の要求を述べる桜井さんと、それを理屈は通ってるとしてあっさり全て受け入れる川本さん、両者とも大人だなあ、と思う所です。まあ、二人とも勝負に勝ちたくて仕方ない人たちですから、相手の事を「この馬鹿が」と思っていても、妥協の余地はいくらでもあったんでしょうが(笑)。

こうして84年の末に開かれた本社の経営会議には桜井さんも呼び出され、「来年は絶対三勝以上する」と宣言の上、予算の大幅増額を勝ち取るのです。この予算増が無ければ恐らく85年シーズン途中からの新型エンジン投入は不可能でしたから、これもまた勝つための重要な要素だったのでした。
ちなみにこの辺りに関しては既に述べたように既にホンダ本社の社長が1983年の10月にレース大好き三代目社長の久米さんになり、さらにF-1番長川本さんも本社の常務の一人になっていたのであっさり認められた、という面もあったと思われます。

ついでに1984年の段階では完全に二流チームに成り下がっていたウィリアムズは資金難に苦しんでおり、これを救う形で同年のマシンの一台をホンダが買いとり、これを使って走行試験も日本でできるようになりました。すでに見たコレクションホールの展示車、ウィリアムズ ホンダ FW09はこの時購入した車の可能性があります。さらにイギリスにホンダの金でエンジンテスト用の施設も造る事が決定し、いよいよ勝つための体制が完成しつつありました。

さらに新世代のレース管理手法、無線でエンジンの状態を常時監視する遠隔計測、テレメトリー(telemetry)装置の導入とコンピュータによるエンジン管理が土師さんの引退に合わせて大幅に進む事になります。ちなみに遠隔計測だけなら第一期F-1のホンダもやっていた、という証言があるのですが、当時はドライバーは無線を持ってませんから必要な情報を伝えるにはピット前で示されるサインボードしかなく、またピットから無線でエンジンの設定を変えることも出来ませんから、基本的に別物と考えるべきでしょう。

こうして経験や勘だけではなくコンピュータやテレメータ(遠隔測定)装置を駆使した膨大なデータ管理を行う新世代のホンダエンジンチームが産まれます。そしてその辺りの責任者だったのが後に1988年のマクラーレン ホンダ時代にホンダのプロジェクトリーダー(桜井さん言う所の「総監督」)となる後藤治さんでした。元はエンジン試験の技術者だった人です。

ちなみにテレメータ(遠隔測定)装置によりエンジンから電波でデータを飛ばし、それをピットどころか日本の開発チームが直接見て瞬時に状況を判断する、という体制を初めてF-1に持ち込んだのも桜井監督率いるホンダで、以後、これはF-1の常識となりました。同時にコンピュータによるエンジン制御も進み、これも以後のF-1の常識になって行きます。

ここで、ホンダ大躍進の基礎となった1985年のウィリアムズ チームの戦績を見て置きましょう。

GP  ケケ・ロズベルグ  ナイジェル・マンセル 
1.ブラジル 4/7  リタイア  リタイア
2.ポルトガル 4/21  リタイア  5位
3.サンマリノ 5/5  リタイア  5位
4.モナコ  5/19  8位  7位
5.カナダ 6/16 *新エンジン投入  4位  6位
6.デトロイト 6/23  優勝  リタイア
7.フランス 7/7  2位  予選落ち
8.イギリス 7/21  リタイア  リタイア
9.ドイツ 8/4  12位  6位
10.オーストリア 8/18  リタイア  リタイア
11.オランダ 8/25  リタイア  6位
12.イタリア 9/8  リタイア  11位
13.ベルギー 9/15  4位  リタイア
14.ヨーロッパ 10/6  3位  優勝
15.南アフリカ 10/19  2位  優勝
16.オーストラリア 11/3  優勝  リタイア

すでに見たように第4戦 モナコまでは旧型エンジンで参戦したものの初戦でいきなり両車リタイアと言うお先真っ暗なスタートを切り、以後もパッとしないで終わってます。

その後、第5戦のカナダGPから新型エンジンを投入、一定の手ごたえを得て、第6戦のデトロイトGPでホンダ第二期の二勝目をロズベルグがあげたのは既に見た通り。これは桜井「総監督」にとっては初勝利であり、この時の感動が「とにかく勝ちたい」という彼の本能を刺激し、後のホンダ全盛期にと繋がって行きます。

ちなみに初投入のカナダGPからデトロイトGPまでわずか1週間しか無かったため(通常は2週間以上開けるが年に何度かこういう開催がある)、新型エンジンの供給が間に合わず、デトロイトGPの予選走行は旧エンジンとカナダGPで使った新型の中古エンジンで乗り切る必要がありました。

それでもマンセルが予選2位、ロズベルグは予選5位を確保してますから、前年初優勝したダラスGPといいアメリカの市街地サーキットはウィリアムズ ホンダの車と相性が良かったのだと思われます。ちなみに本選用のエンジンは航空貨物便で送ったのではとても間に合わないため、分解して個人用手荷物として機内に持ち込みアメリカに運ばれる、という第一期のF-1以来、ホンダではお馴染みの運搬手段が取られました。

そのデトロイトGPの本選ではロズベルグがぶっちぎりの走りを見せて優勝、新エンジンの性能をいかんなく見せつけます。
デトロイトGPは、ロズベルグの得意な市街地コース、街中の道路を封鎖して造られたサーキットだったこともあり、予選5位の5番目のスタートだったのに8周目までに先の4台を全て抜いてトップに立ち、そのまま優勝してしまうのです。
前年のダラスでのホンダ第二期初優勝が多分に運だったのに対し、この時の優勝は完全に実力によるぶっちぎりの優勝だったと言えます。さらに一時的にマンセルと1位、2位を走ってホンダエンジン初のワンツー独走を成し遂げるのですが、後にマンセルはリタイアに終わってしまいました。

続く第7戦フランスGPではロズベルグが第二期初のポールポジションを得た上で2位に入賞、一見、すべてが順調に見えたのですが、以後はリタイア続きという再び勝てないウィリアムズ ホンダになってしまいます。ちなみにこの第7戦フランスGPでマンセルが予選落ちしたのは後輪のタイヤが破裂(バースト)する事故によるもので、これによってマンセルは負傷しレースを欠場するハメになりました。

このバーストはホンダの高馬力エンジンを受け止めるタイヤに大きな負担を掛けるウィリアムズの車体とサスペンションに原因がありました。次回に見るようにこの点は一定の解決が年内になされるのですが、完全には治らず、以後もウィリアムズ ホンダの泣き所になります。

後に判明するように後輪サスペンションが大幅なホンダエンジンの出力増加に耐えられなくなり歪み、タイヤに大きな負荷をかけて、その消耗を速めていたのです。これがドライビングに悪影響をもたらし、短距離の予選では速くても決勝ではタイヤの消耗から自滅するパターンが続きました。
このため第13戦ベルギーまで二台揃ってリタイアが二回、逆に両車完走は一回のみで、どう考えてもまともな状況ではなくなります。この時期、前年の経営会議で年間三勝宣言をし背水の陣を敷いていた桜井さんの心労は相当なものだったと思われます…

これが解決するのが第14戦ヨーロッパGPからでこの年から加入したマンセルが自身の初優勝を決めると、次の第15戦南アフリカでも連勝、この時はロズベルグが二位に入ってホンダエンジン初のワンツー フィニッシュとなります。さらに最終戦で再びロズベルグが優勝、最終三連勝、年間で四勝というホンダとしては過去最高の記録を打ちたて、翌年へ大きな希望を持たせる形でこの年のレースを終わるのです。さらに2位を2回、3位を1回取っており、優勝を含めると7回の表彰台を獲得、これもホンダエンジの新記録でした。

といった感じで、今回はここまで。次回はもう少し詳しくこの1985年のレースの流れを見て行きましょう。あらゆる意味でホンダ第二期、黄金期の基礎が打ち立てられたのがこの年だからです。


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