1964年から始まったホンダのF-1第一期はある意味伝説になるほどよく知られています。
が、同時期の1966年にヨーロッパのレース界を圧倒してしまう活躍を見せたF-2への参戦は意外に知られてません。コレクションホールの展示とともに、その辺りもちょっと紹介して置きましょう。

フォーミュラレーシング(カタカナ英語スキーの皆さんが言う所のフォーミュラカー)で“1番上の階層”を意味するのがF-1でした。当然、その下の階層もあるわけで、それがF-2です。実際はさらに下のF-3まであります。
でもってF-2 は1961年から63年までは、フォーミュラ ジュニアというカテゴリに置き換えられていたのですが、ホンダがF-1に参戦を開始した1964年から再び復活していました(後に1985年から再度廃止になり、21世紀になってまた復活)。

これは完全にヨーロッパの地方レースだったのですが、当時はF-1のドライバーやチームが多く参戦しており、かなり活気のあるレースが展開されていたのです(1966年にはジャック・ブラバム、ジム・クラーク、グラハム・ヒル、ジャッキー・スチュワートなどが参戦)。
すでに見たようにこの時代のF-1は1500tという安い自家用車レベルのエンジンで開催されており、その下に位置するF-2はさらに小さなエンジンにならざるを得ず、1964年から復活したF-2はなんと1000tという小型乗用車並みの排気量のエンジンで戦われる事になります。これは大排気量エンジンの経験のないホンダにとってチャンスでした。

ちなみに後にF-1が3000tになった後、1966年もまだ1000tで戦われ、翌1967年から1300〜1600ccという変な規定に変わり、最終的に1972年から最後の1984年までは2000tエンジンとなります。ホンダはその1000t最後の1966年に圧勝、エンジン規定の変更に伴い、翌1967年からの参戦は見送られる事になったのです。ちなみに後の1980年にF-2に本格復帰したホンダは、20世紀最後のF-2レース、1984年にもドライバーズ チャンプを獲ってます。…ね、ホンダってエンジン規定が変る直前の年になぜか勝つんですよ。

当時のホンダがF-2というジャンルを知っていたのかどうかすら怪しいのですが、ここに彼らを引き込んだのはF-1のチャンピオン ドライバー、ジャック・ブラバムでした。ホンダの恩人と言っていい彼は、結局、最後までF-1ではホンダに乗る事なく終わるのですが、F-2においてホンダエンジンを彼のチームのマシンに採用するのです。当初は1965年にも使ったのですが、この年のホンダエンジンはまだまだ完成度が低く、一度も勝てないままに終わりました。

ところが翌1966年からブラバムが本格的にホンダエンジンを採用すると、全15戦の内(予定では22戦だったが初戦は雪により予選だけで中断、さらに6戦が開催されず)13勝という圧勝で彼はチャンピオンとなってしまうのです(ただし内1勝はレプコ エンジンで走ったからホンダエンジンは12勝。なぜ一戦だけホンダエンジンを使わなかったのかはよく判らず)。

ちなみにブラバムチームは1戦を欠場してるので(というか同日にフランスとドイツで2レース開催という滅茶苦茶なスケジュールで全チームがどちらか一戦を欠場扱いとなる。何考えてるんだ、これ…)、実際に出走したのは14戦。そして最終戦でブラバムが2位になった以外、14戦13勝、ホンダエンジンで走ったレースでは13戦12勝、勝率約92%という凄まじい記録を打ち立てています。さらに言えばホンダエンジンで両者はワンツーフィニッシュ(1位と2位を独占)を6回も達成しています。

彼らが参戦したレースで唯一敗れたのは最終戦だけで、この時もヨッヘン・リントと0.2秒差でわずかに及ばなかっただけでした(現地に居た川本さんの証言だとレース決勝に遅れてやって来たためブラバムは罰則によって最後尾スタートとなり負けたらしい。川本さんは勝ちすぎて敵を作り過ぎるのを恐れたブラバムの駆け引きでは無かったかと述べている)。
これはブラバムの腕もあったでしょうが、1964年に彼がF-2でチャンピオンになった時は5勝してるだけですからやはりホンダエンジンの力、と考えてよいでしょう。

後に1988年、ホンダはF-1で16戦中15勝という圧勝を記録しますが、その22年前に、すでにヨーロッパのレースを席巻していたのでした。まだ小型乗用車とトラックしか造ったことが無い会社がですぜ。ほんとにホンダすげえ、という他ない世界なんですよ、この辺り。
ちなみに1988年のF-1圧勝の時のホンダ社長はそのF-2エンジンを設計した三代目社長の久米さん、研究所の方の社長は久米さんの下でF-2エンジンの熟成を行っていたF-1番長 四代目社長の川本さんでしたから、このコンビもスゴイですね。

ちなみに1966年の4戦目まで現地に入っていた久米さんは、あまりに無敵のエンジンだったため、もう整備も適当でいいや、と前の晩まで飲みまくってしまい、レース後にエンジンを開けてみたらボロボロになっていて驚いた、それでも勝ってしまった、という事を後にインタビューで述べています(1966年の5戦目からは川本さんが現地に入って久米さんは日本でN360エンジンの開発担当となる。このため久米さんがもっともキツイ時代を現地で乗り切ったことになり後に川本さんに対し「いい目ばかり見てる」と茶化してる)。

ついでにここコレクションホールの解説やホンダの歴代展示、そして「F-1 走る地上の夢」などではホンダF-2エンジンは1966年に11連勝としてますが間違いです。ブラバムチームが欠場したレースや先に見たようにレプコ・エンジンで走ったレースが一つずつあるので厳密には連勝は7回まで、さらにホンダエンジンは全12勝しております。海老沢さんの本は1987年の出版なので資料的に仕方ないですが、コレクションホールの解説は少々調査不足でごさいましょう。何度も指摘してるように、これだけの展示なんですから、解説も一定レベルのものが望まれるところです。



というわけで、その無敵1966年ブラバムのマシン、BT18。カッコいいんですよ、これも。
展示ではブラバム・ホンダBT18という名前になっていますが、当時の記録を見る限り単にBrabam 18となっており、実際はホンダの名前はありませぬ…。

ちなみにこの年、ブラバムはBT-18、19、21と三種類のシャシー(車体)を利用しており、その内BT-18とホンダエンジンの組み合わせで出場したのは7月の第9戦のフランス ノルマンディー戦まででした(初戦は雪で中断されたので実質第8戦)。
そこまでにブラバムが6勝、ハームが1勝の計7勝を上げています。勝利を逃したのは欠場したドイツの第四戦ニュルブルクリンク戦のみで、これは先に述べたように同日開催で物理的に出場不能なレースでしたから、ここまでホンダエンジンの事実上の全勝でした。
余談ですが、みんな大好きNürburgringの発音は、普通に日本語表記にするならニューブクリン、英語でもナーバーグリンであり、ニュルブルクリンクという“日本語”はどこから出て来たんでしょうね、これ…

さて、1964年、ホンダが二輪GPに続いてF-1に参戦する中で、レースがやりたくて仕方ないのに現場に入れない二人が居ました。
後のホンダの三代目社長、久米さんと、四代目社長、川本さんです。久米さんは二輪GPの初期に125tエンジンを設計していたのですが、後にエンジンの2バルブ化を主張してこれを投入したら失敗、以後、レースチームから外されてS360からS800に至る商用車エンジンの開発に当たっていました。
川本さんは1963年に入社したばかりでしたが、本来はレースがやりたくてホンダに入った人で、それが市販車の開発に廻され、しかも人当たりがいいとは言い難い(実は川本さん自身もそういう面があるが)久米さんの下に配属され、両者とも不満を抱えて仕事をしていたのです。おそらくホンダ史上最強のコンビで在り、後にホンダの四輪レースを引っ張て行く二人ですが、この時はまだレースには微塵も関わっていませんでした。

そこにジャック・ブラバムが登場します。すでに述べたように彼は1963年からレースシーズンが終わるとホンダの和光研究所を訪問するようになっていました。その彼が1964年末にホンダ研究所を訪問した時、久米さんが設計図を描いていたエンジンを見て、これをF-2に使えないかと思いつき、ホンダにその事を提案して来たのです。

ちなみにこの辺り、「F-1地上の夢」では久米さんがブラバムの提案を聞いて積極的に参戦に向けて社内で動いた結果F-2に関わって行く事になった、とされてますが、2003年に行われた久米さんへのインタビューによるとやや事情が異なります。久米さんはブラバムがホンダのエンジンを使う事になったのを全く知らなかった、中村さんが契約して来ちゃったものだ、と述べられています。その上である日突然、エンジン設計を命じられたのだとか。この辺りに関しては本人の証言がある以上、おそらく後者が正しいのだと思われます(ただし久米さんはやや照れ隠しというかブッキラボウというか、自分のやった事を適当に濁してしまう事がある人なので「F-1地上の夢」の記述が正しい可能性もある。ちなみにこちらの記述は前後の関係からして川本さんの発言によると思われる)。

ちなみにこれは初めてのホンダの四輪車エンジン開発チームによるレース用エンジンの設計でした。すでに見たように1500tのF-1エンジンは二輪の世界GPで250t以上のエンジンを担当した新村さん、後に3000tの初代エンジンを設計したのは、同じく2輪GPで50tクラスのエンジンなどを設計し、後の二輪レース番長にしてセガにとどめを刺した入交でした(久米さんも二輪GPエンジンを設計してたが、この時期はすでに市販用四輪車エンジンの設計担当だった)。この後、最後の3000tエンジン、地獄の空冷と普通の水冷を久米&川本コンビが担当するのですが、残念ながらこちらは結果を出せずに終わります。

が、これによってホンダは二輪の世界GP、F-1、そしてF-2にまで参戦する事になり、研究所の人員の多くは市販車の開発をほったらかしにして、レースに熱中する事になります。なにせ社長の本田宗一郎総司令官が先頭に立って突っ走ってるので止める人間が居ないのです。当然、市販車の開発にそのしわ寄せが行くわけで、その反動はやがて藤沢専務の居るホンダ本社からやって来る事になります。その辺りはまた後で。


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