さて、ではホンダコレクションホール2階のもう一室、市販バイクの部屋に進みましょう。
ご覧のようにズラリとホンダの歴代バイクが並び、バイク好きにはたまらん、という空間だと思いますが、私はバイクには詳しく無いので、ここは最低限の紹介で流します。でないと死にます。
納得がゆかぬ、という方はぜひ一度、現地に足を運んでください。一生に一度くらい訪問する価値はあります。スミソニアンのアメリカ歴史館、アメリカ空軍博物館、ロンドンの博物館軍団と互角に戦えるレベルの博物館ですから。
最初はホンダの創成期の主力商品、既存の自転車に取り付けるエンジンキット、例のバタバタです。燃料タンクとエンジンなどがセットになった商品で、自転車への取り付けは購入した本人、あるいは販売店で行う事になります。
向って左がホンダの名が冠された記念すべき最初のエンジン、1947年発売のホンダA型(ただし本田技研工業が正式に発足するのは発売翌年の1948年9月)。
戦後2年目の1947年に発売されると大ヒットなり、1951年まで4年間生産が続きました。そして、この製品からすでにホンダは流れ作業、ベルトコンベア式の製造環境を取り入れており、本田宗一郎総司令官の理想とする大量生産システムを取り込み始めます。
「ウチの製品は、組むのに腕だのコツだのが要るようじゃ駄目なんだ。名人芸が要るようなものはつくるな」
が本田宗一郎総司令官の口癖だったそうで、この人に第二次大戦期の軍事生産責任者、アメリカにおける元GM社長のビル・ヌードセンのような仕事をお願いしていれば日本の兵器生産はどうなったかなあ、と思ったりもします。
もっとも、そこは日本の中小企業ですから、夢と現実はまだまだ乖離しており、しょっちゅうラインを停めてアチコチがズレてる各部を修正しながらの生産だったそうですが。
その右にあるのが、その後継機である1952年発売のホンダ カブ F型。それまでハンドル下、脚で挟む位置にあったエンジンを後部のギア横に持って行き、燃料タンクもその上に付ける形状になりました。これで熱で火傷する、さらにはオイル漏れなどで服が汚れる、というのを避けたようです。このF型のエンジン設計は後にス―パーカブ系のエンジン設計をする事になる星野代司さん。
ホンダA型のあと、B型(オート三輪)、C型(96tのエンジン搭載自転車(Moped)に近いもの)は試作で終わったため、1949年8月に発売されたホンダ初のバイクがホンダ ドリーム号D型という名称になり、さらに4サイクエンジン搭載の二代目ドリームがE型だったので、その後から発売となったこのカブはF型なのです。そして、これがカブの商品名で売れられていたので、その後に販売された50t原付バイクは“スーパー”カブとなります。
ちなみに、カブF型の発売段階ではすでに藤沢専務が経営に参加、独自のダイレクトメール戦略により販売店を一気に増やしたとされます。
ズラリとならんだホンダ最初の完成品バイク軍団、歴代ドリーム号。
一番手前が1952年に発売されたホンダ初の4サイクルエンジンを積んだドリームE型。D型に次ぐ二代目のドリーム号です。ちなみに排気量は150t。
後の二代目社長、河島さんの設計によるエンジンで、当時の国産バイクでは不可能とされた暑い7月の箱根峠越えテスト走行に成功、本田、藤沢、そして自ら運転していた河島の三人が泣きながら抱き合って喜んだ、という伝説を造ったマシンです。
箱根の急登坂をトップギアで登り切った事でも知られてますが、そもそもハイとローの二段ギアなので、そんな無茶をしたわけではないのはご愛敬(笑)。ついでに河島さんによると雨で全員がずぶ濡れだったから、抱き合ったらエライ事になり、実際は握手しただけ、という事です。…まあ、ドラマチックな展開ではあった、という事で(笑)。
ちなみに河島さんは当時まだ地元の浜松に居たのですが、前年1950年末にすでに東京に活動の場を移していた本田宗一郎総司令官からちょっと来い、と言われて呼び出され、そのまま2か月缶詰め状態で設計図を描かされたそうな。
燃費が良く、低速時のトルクも出る4ストエンジンのドリームE型はよく売れました。ホンダ初のバイクだった2ストのD型が月産160台前後だったのに対して販売から半年で月産500台、最終的には1000台を超える当時としてはヒット作となりました。
それ以外の歴代ドリーム号もズラリと並んでるんですが、良く知らないので、すみません、記事では素通りとします。
こちらはおなじみスーパーカブシリーズがすらりと並ぶ展示。1958年8月に発売されたベストセラーにしてホンダの土台を造った二輪車です。やっぱりいいなあ、これ。できればキャブレター時代のを一台ほしいなあ。
余談ながらCubはおそらくアメリカ軍の連絡用の軽飛行機から取った名前だと思うんですが、肉食獣の子ども、転じて手に負えないチビッ子、さらに転じて、勢いだけはある新米、元気な若造、といった意味になります。よってSuper
cub を直訳するとチョー元気な若造、さらに関西弁に訳すとメチャ元気な若造やんけ、といった意味になります。
さらにちなみに本家のカブ、パイパー J3 カブ(1938年初飛行)にも発展型のPA-18スーパーカブ(1949年初飛行)がありました。この点、ホンダ関係者の皆さんは何も言ってませんが、カブは米軍が、スーパーカブは陸自が使ってましたから、命名にはこの影響もあったんじゃないかなあ、と私は思ってます。本田宗一郎総司令官は飛行機好きでしたからね。
米軍が使っていたパイパー カブ(軍用なので型番はL-4またはO-59)。
占領軍はこれを日本に持ち込んでますから、浜松基地の近所に居て飛行機好きだった本田宗一郎総司令官がこれを知ってた可能性は高いと思うんですよね。
その後継機であるスーパーカブ(軍用なのでL-21)は日本では陸上自衛隊が1953年から使ってましたから、こっちも知っていた可能性はあるでしょう。ちなみにこの機体は所沢の航空発祥記念館で見れます。
話をホンダのスーパーカブに戻します。
1956年、本田技研工業の創立から8年目に本田&藤沢コンビはヨーロッパに視察旅行にでかけます。この時期に、ホンダ程度の会社の経営陣が海外視察に行く、というのは異例の事でした。そもそも日本人が自由に海外に出れるようになったのが1964年、東京オリンピックの年の「業務旅行の自由化」からですから、手続きだけでも相当に面倒だったはずで、ホンダ経営陣の先端ぶりが感じられます。この辺り、おそらく藤沢さんの発案だと思うんですが、詳細は不明。
ちなみにこの時期は後で見るホンダ最初のスクーター、ジュノオ号が事実上失敗に終わって、経営的には苦しかった時期でもあり、そこであえて前進するのがこの二人なんでしょうね。
現地に入って見ると、ヨーロッパの小型バイクはスクーターかモベッド(エンジン付きの自転車)だったのですが、本田宗一郎司令官はそれらに満足せず、かつ小型バイクでも2ストはうるさ過ぎる、と4ストの原付バイクを開発するべきだとの発想を得たとされます。
その結果開発が始まったのが後に大ヒット作となるスーパーカブでした。事実上の開発責任者は当時の車体設計課長だった原田義郎さん(後にCB750FOURなども手掛ける)、その後も延々と使われ続けるスーパーカブ系のエンジンを設計したのはカブF型のエンジンを担当していた星野代司さん。ちなみに星野さんは元は外燃機関、蒸気機関の設計をやっていた人だったそうな。このスーパーカブのエンジン設計でも本田宗一郎総司令官は口を出しまくるのですが、星野さんに言わせると、当時はまだあまり無茶な事は言わなかったらしいです。
車体全体の基礎設計をした安藤吉之助さんによると、設計仕様書を造る前に原型となるクレイモデルを造ってしまい、思い通りの形状になった段階でそこから寸法を拾って仕様書にまとめる、という珍しい手法が取られたとの事。
そしてそのデザインを担当したのは大学を出て入社したばかりの木村讓三郎さんで(デザイン系の学校ではなく千葉大工学部の出身)、ある日突然、お前がやれとの指示を受けたのだとか。ちなみにスーパーカブの名付け親も木村さんで、当時流行していたスーパーという言葉を前作のカブに付けて提案したところ本田宗一郎総司令官があっさり認めてしまったとの事。ただし上でも書いたように、この命名の話にはやや疑問が残りますが。とりあえずドリーム号と言い、どうも本田宗一郎総司令官は命名にはそれほどこだわらないみたいですね。
結局、クレイモデルを造っては削ってのデザイン作業は8カ月かかり、最終的に完成してから藤沢専務を呼んで売れそうかどうか、営業からの感想を求めました。それが有名な「まあ、3万台だな」の一言となります。周囲が年産かと思ったら「馬鹿言え、月に3万台だよ」と言って本田宗一郎総司令官すら驚かせた、というエピソードです。
ちなみに当時、日本中のバイクメーカー全部合わせての販売台数が月産4万台でしたから、藤沢専務の発言がいかに無茶だったかが判るかと。最終的には3万台までは届かなかったものの、月産2万7千台という当時としては記録的な数字を販売から2年足らずで達成、ほぼ藤沢専務の予言通りの展開になったのです。ちなみに広告宣伝も彼の得意とするところで、スーパーカブの宣伝でもそのセンスが生かされています。
ちなみにスーパーカブの設計に入る前に、藤沢専務は女性にも受け入れられるバイク、奥さんが抵抗なく買う事を認めるバイク、そしてエンジンをなるべく外から見せるな、と注文を出していたとされます。そこら辺りも藤沢専務の活躍の一部でしょう。
燦然と輝く黄金のスーパーカブは、2017年に造られた生産1億台記念の特別車。ただし原付ではなく、110t車。
1971年に一千万台を突破した時にもゴールドカブが造られたそうで、それに倣ったものだとか。インド軍に供与して、例の一台のバイクに10人近い人間が扇状に乗る曲芸とかに使ったら映えるんじゃないかなあ、これ。
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