さて、今回からはホンダコレクションホールの二階の展示その1、市販四輪車を見て行きます。とりあえず今回は軽自動車編です。 二階の展示室入り口から。 かなり広い部屋にズラリと歴代ホンダ車が並ぶさまは壮観です。 二輪メーカーとしてはすでに日本でトップを取り、バイクの世界GPでも1961年以降は連戦連勝、そして営業のボス、藤澤専務の決断により1959年秋からすでにアメリカに現地法人を設立して世界展開を始めていたホンダが次に目指したのは四輪車メーカーへの脱皮でした。 これは二輪市場だけでは限界があるから四輪へ、とかメーカーとして成長を目指そう、とかそういったもっともらしい理由ではなく、単に自動車が大好きで、造りたくてしかたなかった本田宗一郎総司令官の絶対的な基本方針だったと見るべきでしょう。 なのでホンダは1957年からそのための技術者を採用し始めました。 後のF-1第一期監督であり、初期のホンダ四輪車開発責任者だった中村良夫さんもこれに応じる形で1958年「F-1やるなら入社する」宣言とともにホンダの四輪開発部隊に加わり、後にその責任者になったわけです。これがいわゆるホンダの“第三研究課”でして、以後1959年1月に最初の試作車XA170、続いてXA190を完成させます。ただしこの試作車はあくまで技術試験用であり、市販予定はまだ無かったものでした(この辺りの設計から中村さんが指揮をとっている)。 この後、すでに見たように本田宗一郎総司令官からは引き続きスポーツカーを、営業のボス、藤澤専務からはホンダが持っているバイクの販売店網を活かせる軽トラックの研究をそれぞれ命じられ、両者の試作車がいくつか造られます。 当初はまず軽トラの市販車を1960年末までに完成せよ、という話があり、XA-120という試作車までは完成するのですが、どうも本田宗一郎総司令官の現場への過度な介入などによって開発が迷走して市販は実現できませんでした。以後もその開発は迷走します。 その最中の1961年に特振法案、例の特定産業の会社数を政府が規制する法案が通産省から発表になり(これも既に述べたように後に廃案になるが)、ホンダの尻に火がついて、その開発は一気に加速される事になったわけです。 ちなみに本田宗一郎総司令官は天性の勘の良さでなんら学習した事が無いのに資本主義の本質を見抜いていた人でもありました。よって、この時、通産省の方針に激怒、メーカーが何を造ろうが自由である、最後は市場に淘汰されるだけだ、よって「通産省が株主になって、株主総会でものを言え。うちは株式会社であり、政府の命令で、おれは動かない」と宣言してました。 そうは言っても法律が成立してしまえば打つ手が無いので「四輪メーカーとしての既成事実造り」が急がれ、このため1962年1月、第三研究課に急ぎ市販可能な車の開発をせよ、という命令が下ります。 この頃、後に日本を代表するサーキットとなる鈴鹿サーキットをホンダが全額出資して建設中で、1962年秋には営業開始を予定してました。そこでまだ完成前ながら6月15日にサーキットのお披露目も兼ね、ホンダはその四輪車の製造発表をやる事にしたのです。 (余談だが鈴鹿サーキットの営業開始は日本初の自動車専用高速道路が出来る前の事になる(名神高速の完成より8カ月早い)。このため日本は自動車専用道(高速道路)より先に完全舗装のサーキットが完成していた国となった。これもホンダの力である) こうして開発は急ピッチで進められるのですが、例によって本田宗一郎総司令官が現場に大幅に介入、片っ端から干渉したため、ただでさえ大混乱だった現場はさらなる混乱に追い込まれたと言われています。 この状況で複数のエンジンの開発は無理であると判断され、当時設計が進んでいた水冷直列4気筒、そしてこれまたDOHC(ただし2バルブ)という豪華な装備の360tエンジン、社内名称XA250のみが制作される事になりました。 ちなみにこのエンジンはホンダの二輪世界GPのエンジンを開発していた後の三代目社長、久米さんがその基本設計を担当しています(もう一人の世界GPのエンジン屋、新村さんも参加はしてるらしいがどこまで関わったのかはよく判らない)。 こうした大混乱の中で一台だけ造られたのが前回見た試作スポーツカー、S360で、真っ赤に塗られたこの車を本田宗一郎総司令官自ら運転しながら鈴鹿でお披露目となり(助手席には中村良夫が乗っていた)、さらに同年秋の全日本自動車ショーでも展示がなされます。 ただしこれまた前回見たように、幾つかの理由からS360は最終的には発売に至りませんでした。代わりに登場したのが自動車ショーで同時に発表されたS500だったわけです。が、こちらの開発にはまだ時間がかかり、とにかく「四輪車メーカー」であるという既成事実の成立を急ぐには、残りの一台、S360と並行して開発されていた軽トラックを発売するしかない、という状況になって行きます。 こうして1963年8月、ホンダの四輪進出第一号として世に出る事になったのが、伝説の軽トラ、T360なのでした。 ちなみにこのT360も例の鈴鹿サーキットでの発表会でお披露目されており、同年の自動車ショーにもS360、S500と並んで出品されています。どこまで製品版と同じものだったかは判りませんが… というわけで、ホンダ初の四輪車製品、T360。 TはトラックのTなんでしょうね。型番はTなのにボンネットに大きくHと入ってるのはエロおやじ専用だからではなく、ホンダのイニシャルをオシャレにあしらったもの。 実用一点張りの軽トラックにこういったこだわりも見せるのがホンダなんですが、実はそんなオシャレポイントなんてどうでもいいくらい、無茶苦茶な軽トラックだったります。 T360はAX-250試作エンジンを基に量産化された水冷4気筒、DOHCエンジンであるAK250Eを搭載、最大で30馬力を叩き出し、100q/hまで出せたのです。これは当時の軽トラどころか軽自動車すら凌駕する性能でした。そして日本初のDOHCエンジン搭載車でもあったので、日本のDOHCエンジンの歴史は軽トラと共に始まった事になります(だたし2バルブだが。本来の4バルブDOHCは1969年発売の初代スカイラインGT-RのS20エンジン)。 ちなみに同時進行で開発されていたS360用エンジンをもったいないから流用したもので、スポーツカーの心臓を持った軽トラ、という“伝説”は正しくはなく、このトラックは最初から最高速度で90q/hを超える事を目標にしていたため、結果的にスポーツカー級のエンジンが必要になったものでした。つまり開発当初からS360と同じ強力なエンジンの搭載が前提だったのです。 さらに運転席後部の床下にエンジンがあり、ミッドエンジンに近い構造にもなっていた上に、床下配置で重心も下がっていて、もはや軽トラに何を求めてるのだホンダ、という気もしなくもなくも無い構造です(笑)。 ちなみにエンジンは床下なのにボンネットがありますが、ここにはスぺアタイヤが入ってます。 (余談ながら日本のカタカナ英語でエンジン中心部配置をミッドシップと呼びますが英語ではMid engine と呼ばれる方が多い) H360に積まれていたAK250Eエンジン。水冷360tで4気筒DOHCというスゴイものでした。 小さくて軽くてよく回る、すなわち回転数が出て馬力(仕事率)が稼げるピストンを積んでいた事からから判るように二輪の世界GPで鍛えられた高速用エンジン技術によって設計されたものです。久米さんらしいエンジンでしょう。 こちら側が前面となる直列四気筒なんですが、搭載時はスペースを稼ぐため、展示のように横置きになってました(右側がシリンダーヘッドでプラグの配線が見える)。すなわち水平エンジンで、これオイルの循環とかどうなってるんだと思いますがよく判らず。ついでにキャブレターは左側の上面に見えてる四つの円形のものがそれなんですが、この位置にキャブがあって、どうやってシリンダーヘッドまで混合気を送り込んでいたのかもちょっとよく判らず(ドライサンプ?)。 よくまあこんなエンジンを軽トラに積んだな、と思います。実際、コストはかなり高かったようで、ホンダが360t時代の軽に水冷4気筒、DOHCなんて無茶をしたのはこれが最初で最後になります。 その後継車、ホンダの二代目軽トラ、TN360。 さすがにH360のAK250Eエンジンはコストがかかり過ぎると廃止になり、後で見るベストセラー軽自動車N360の空冷2気筒、2バルブSOHCという当時としては常識的なモノに置き換えられました。それでも出力は30馬力を維持してましたから、ホンダらしといえばホンダらしい軽トラ。 さらに変なところで走り屋向け、という性格を残してしまった一台でもあります。 このTN360では、エンジンを荷台下に置いて後輪駆動としたため、これまたミッドエンジン構造を持った後輪駆動の軽トラという性格が強く継承されてしまったのです(本来の目的はコスト削減のためN360の軽自動車用エンジンとFF駆動配置をほぼそのまま後輪部に持っていったもの)。エンジンの配置と駆動方式を見ればほとんどスポーツカーであり、このため、以後のホンダの軽トラに走り屋的な愛好家までが出て来る事になります。 |