まずは入り口ホールの展示から。 言うまでもなくホンダの顔、スーパーカブC100。いつみても美しい工業製品です。C100といっても原付バイクですから排気量は49t。 ちなみに“スーパー”なのはこの前にただのカブという商品があったからですが、こちらはオートバイではなく自転車に取り付ける後付け補助エンジン、いわゆるバタバタで、初期のホンダの主力製品だったものでした(おそらく1960年の道路交通法改正まで免許不要で乗れた)。これも後ほど登場します。 1958(昭和33)年に発売された、言わずと知れた1億台製造車、アジアのベストセラー実用バイクの最初の形。これによってホンダはバイクメーカーとしての地位を確実なものにします。あまり変わってないようですがよく見ると最近のものとは意外にいろいろと違いがあり、興味深かったです。 鋼鉄プレス製のボディで安価で頑丈な実用バイクとして登場したわけですが、1958年の発売当初の価格は55000円、当時の大卒初任給の平均が13000円前後ですから、その4倍以上でかなりの高価な乗り物だったわけです(ここ10年くらいでスーパーカブはかなり値上がりしたが、それでも大卒初任給の2倍前後。キャブレターエンジンで安価だった2006年以前のモデルなら平均で18万円くらいだから大卒初任給だけで買えた)。 1963年10月発売となったホンダによる二台目の市販四輪車、S500。実際の排気量は531tだったりしますが、S531だとカッコ悪いと思われたか。 二輪メーカーとしては販売も順調、後で見るように国際レースにも連勝中で、すでにバイクでは一流メーカーとされていたホンダが満を持して四輪市場に乱入した時の「顔」となった車です。 ただし現地の展示でもWebの関係資料でもホンダはこの車で四輪市場に参入した、と書かれてましたが間違いで、実際は軽トラックのT-360が1963年8月、2か月ほど先に発売されてます(開発の順序ではこちらが先の可能性があるがこの点は後述)。ちなみにいろんな意味でスゴイトラック、T-360は後ほど登場。 直後に発売されたS600の陰に隠れて印象の薄い車ですが(生産は1年も続かず、総生産数は500台を切ってると思われる)、ホンダのその後の活動を象徴するようなスポーツカーでした。 実際、その開発責任者は中村良夫(初代ホンダF-1チーム監督)、エンジン設計は久米是志(後の1966年、自ら設計したエンジンをブラバムのレーシングチームに供給、ヨーロッパF-2において開幕11連勝という新記録を打ち立てた。その後、三代目本田技研工業社長となる)、久米の助手として仕事をしていたのが、後に1967年の3000tF-1エンジンを開発、そして黄金期の第二期ホンダF-1参戦を実現させた後の四代目社長である川本信彦、そして当然、その開発全体に本田宗一郎総司令官が睨みを効かせていました。 ちなみにホンダは最初から多気筒、DOHC(ダブルオーヴァーヘッドカム)エンジンで市場に殴り込むという豪快な事をやっており、S500のエンジンは531tながら直列4気筒で8000回転まで回り44馬力を出しました(ただし2バルブ)。これは現在の660t軽自動車エンジンと比較しても1t辺りの馬力はほぼ同じですから、すげえな、という感じです(馬力は仕事速度の指数だから高いほど高速が出る。同時に仕事=エネルギーなのだから高馬力なほど燃費は悪化する。なので燃費で見るとこの車はかなりひどい。ちなみに馬力(Horse Power)は力(Force)では無く、作業効率を見る能力(Power)なので高馬力=高出力ではない。高馬力=より高速に仕事をする、でありエンジンの発揮する力はあくまでトルクによる。そのトルク(力)を使って、どれだけ素早く仕事ができるか、同じ時間で車体をより遠くまで運べるか(つまり速度)の大きさを示すのが馬力(=Fl/t=FV)。よって高馬力だから高速が出る、は正しいが、高馬力だから重いものも持ち上げられる、は成立しない。「力」の大きさではないのだから当然である。S500のエンジントルクは4.6sf・mで、当時としては悪くない)。 ちなみにホンダは既にS600の発売を決定していたのに、1963年秋からあわててS500の販売を開始したのは当時の通産省が悪名高き特定産業振興臨時措置法を国会に提出し、これに本田宗一郎が真っ向から勝負を挑んだからです。 これは日本国内の自動車メーカー数を抑制し、過当競争を避けようとした法案でした(馬鹿のフランス社会主義政権を手本に、製鉄、自動車、石油化学の会社の数を制限し、過当競争を避け国際的な競争力を持たせる、という法案だった。資本主義と自由市場の根本を微塵も理解してない、ボンボン育ちの昭和官僚連中が考えそうな話だったと見ていい。この時代の高級官僚は、戦前に日本を変えてやると己惚れて暴走した軍部の若手将校に似た自意識過剰と己惚れが感じられる。とっても優秀な俺らの手で日本を動かすんだ、という考えで、すなわち馬鹿である。これに真っ向から立ち向かったのがホンダだった)。 結局、この法案は廃案に追い込まれるのですが、これに激怒した本田宗一郎が、ホンダは四輪車を複数、既に造っているという既成事実を造るため、その発売を急がせた結果、産まれたのがこのS500だったわけです。 その後、最終的に定産業振興臨時措置法は廃案になり、そしてホンダは世界的なメーカーへと順調に成長する事になります。ただし21世紀に入った後は大分失速してますが…。 |