■基地の那覇、否、名は嘉手納
さて、今回訪問する嘉手納基地はアジアでは最大の航空基地です。
中国がさらにデカいのを造ってる可能性はゼロでは無いですが、
航空写真で確認できる範囲ではまだそこまでのモノはありません。
当然、貧乏なロシアにもアジア地区にそんな基地はありません。
基地部だけで19.86㎢、これは既に見たように東京の港区、大阪の住之江区に匹敵する広さになります。
そして道で隔てられてるとはいえ、実質、この基地と繋がっている(地下トンネルがある)
北部の弾薬庫地区が26.58㎢あり、両者を合わせると
総面積46.88㎢という広大と言うのも生ぬるい、という広さになるのです。
ちなみにこの両者の面積は東京の中心部、千代田区、中央区、港区を併せたものにほぼ等しく、
大阪だと環状線はこの中に完全に入ってしまう広さになります。
(北区、中央区、西区、浪速区、天王寺区を全部合わせてもこれより狭い)
他の日本の大都市なら、その中心部は完全に飲み込まれてしまうでしょう。
嘉手納基地には海軍と空軍が主に駐留、
(一定数の海兵隊、陸軍も居るので嘉手納駐留の全軍を併せてTeam
Kadenaとも呼ばれる)、
軍人、軍属とその家族で約19000人が住んでおり
完全にアメリカの中規模都市が丸ごと沖縄の真ん中に移植された状態になっています。
実際、基地内には住宅街、ショッピングモール、レストランからジム、映画館、さらにはカジノまであるのです。
当然、小学校から高校までも建てられています。
(短大・大学もアメリカ本土の分校がある)
なので、ここは軍事基地というより、アメリカの都市が丸ごと移植されてると考えないと
その実態を見誤りますから、注意が要ります。
1m間隔でマッチョで上半身裸のアンちゃんが両手に機関銃握って立ってるわけでは無いんですね。
そもそも基地内の総人口19000人の内9500人は軍人の家族と軍属として働く一般人なので、
軍人と一般市民の数はほぼ同数なのです。
(空軍軍人が6600人、その他の軍人が2800人、計9400人)
そこに日本人の雇用者が約3000人いるので、昼間人口は実に2万2千人、
まさにひとつの地方都市と言っていいでしょう。
さらに常にいろんなところが工事中であり、その作業員の多くも日本人で
これがだいたい1000人前後とされますから、実際はさらに多い人数がここに居るわけです。
(ちなみに地元の嘉手納村の人口は約13500人なので基地人口より少ない)
ついでながらアメリカ軍の主張だと基地が沖縄にもたらす年間予算は7億ドル、
800億円近い、としていますが、これが全部アメリカ持ちなのか、
日本政府の思いやり予算を含むのかは判りませぬ。
とりあず、あらゆるものが桁ハズレなのがこの基地なのです。
まずは物理的にそれを認識するため(笑)、航空写真で確認して置きましょう。
出典:国土地理院ウェブサイト *必要な部分をトリミングして使用
2003年撮影でしかもモノクロですが、今でもほとんど構造は変わって無いので十分でしょう。
写真で判る基地の最大幅、5.6qは東京東部だと上野から新橋、東京西部だと池袋から代々木、
大阪なら大阪駅から通天閣までに匹敵します。…広いんですよ、ホントに。
当然、暑い沖縄でこの距離歩いたら死にますから、移動は車が基本で、基地内には2車線どころか4車線道路まであり、
信号はそれこそ無数に存在します。ちなみに基地内は法律上はアメリカですが、自動車は日本と同じ左走行です。
1967年5月、日本返還前のベトナム戦争真っ最中に完成した二本の3700m(正確には3689m)滑走路を中心に
北部が軍事基地、南部が住宅などの生活施設となっているんですが、
見てわかるように、実は基地の半分以上を生活施設が占めます。
ちなみにこの巨大滑走路はその建設時期から判るようにベトナム戦における北爆のB-52用で、
完成の翌年、1968年2月には台風からの退避を名目にB-52が嘉手納に移動、作戦行動を開始します。
ところが同年10月には政治的な判断(大統領選挙が始まる)から北爆中止に追い込まれ、
その直後、1968年11月に一部で有名なB-52墜落事故が発生してしまい、散々な結果に終わります。
(離陸直後に北部弾薬庫の中に墜落。戦術核まであったはずの火薬庫で大爆発が起き、
かなり危険な状況だったと言われている。また現地の住民にも重軽傷者が出た)
結局、北爆中止ではここに展開しても意味がないので、1970年10月にB-52部隊は撤退、
滑走路まで拡張したのに約2年半の配備で終わりました。
ちなみにこのB-52の撤退を沖縄では住民運動の結果、としてるものが多いですが、
米軍はそんな甘くない(というかこの時代はまだ狂ってる)ので、北爆中止が無ければ
この撤退は無かったでしょう。
ここに展開するのはアメリカ空軍最大の第18航空団(18th
Wing)で、
配下にはF-15Cの2個飛行隊( Fighter
Squadron / 第44、第67飛行隊)、計36機以上のF-15Cを抱えています。
さらに練習型のF-15Dを含めると、50機前後の機体がここに居るはずです。
(基地の広報資料によると全54機とされるので通常の飛行隊とは配備数が異なるかも)
その他にも空中給油機のKC-135Rが15機前後、空中哨戒機のE-3AWCSが10機前後(ただし変動が多い)、
C-130の全天候型、電子装備を搭載してどんな条件でも飛べる特殊輸送機、
MC-130Jが10機戦後とアメリカ本土でもここに匹敵する基地はあまりない規模の部隊が展開しています。
さらに海軍が対潜哨戒機P-3Cと電子偵察機のEP-3Eを合計で8機、P-8A哨戒機を6機展開してますから、
ホントにすごい規模なのです。
そこに救難、連絡用のヘリ、HH-60なども加わるわけです。
まあ戦争でもやる気か、という世界が展開してるのがこの地域であり、当然、中国最大の注目ポイントでもあります。
そりゃ沖縄に中国人殺到するよな、と思ったり。
冗談抜きで、観光では無い人、結構居ると思いますよ、この辺り。
参考までに18航空団は1927年設立のアメリカでも歴史ある航空団の一つで、
個人的にお手上げ黒チキンの名で親しんでいるエンブレムで知られております。
下のモットーはラテン語で、頭の良くない日本人がカッコつけて英語使いたがるのと同じように、
20世紀前半までのアメリカではカッコつけたがる頭の弱い人はこういったラテン語をよく使ってました。
意味は「その爪で切り裂け」で、となるとこれは闘鶏ですかね。
ちなみに以前にも別の記事で書きましたが、部隊ごとのマークを紋章(Emblem)と呼び、
これを盾の形にしてモットーや部隊名を下に入れる形式をUnit
shield、部隊楯章と呼びます。
日本で時々見かけるカタカナ英語、インシグニアとかは米軍ではほぼ使わないので、注意。
そんな無茶苦茶な存在、嘉手納基地はここ3年ほど基地祭の中止が続き、
一般人が中に入る機会はほとんど無い場所だったのですが、今回、現地のK山さんから声をかけてもらい、
住宅地区及び滑走路脇までなら案内できますよ、とのお話を頂く。
それは下手な海外旅行より貴重なチャンスじゃないですか!という事で今回の沖縄の旅となったわけです。
ではいよいよ、内部に入って行きましょう。
ただし写真撮影禁止の場所が多いので、今回見学したところの1/5くらいしか画像では紹介できませぬ。
この点はご了承くださいませ。
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