■インドの飯はウマいのだ
こちらはチャパティ。
インド北部は長年イスラム圏だったせいか、
種無しパン(イーストで発酵させて膨らませないパン。元はユダヤ教の風習)が普通ですが、
この手のは全部ナンだろうと思っていたら、違うんだそうな。
この後、ホテルの近所の店のオヤジから、徹底的にこの点を叩き込まれるのですが(笑)、
窯の中で焼くデカい種無しパンがナンで、これは不定形。
対してフライパンや鉄板などでお好み焼きのように丸く焼き上げるのがチャパティで、
どうも通常のインド料理に出てくるのはこっちらしいです。
ついでに、お値段もチャパティの方が安かったです。まあ、わずかな差ですけども。
ちなみにイスラム圏ではない南部は米食文化だと聞いてますが、今回は訪問して無いので詳細は不明。
北が小麦で南が米となると、中国と同じじゃん、という事になりますが。
と言った感じで、再びインド料理に感動した後は、いよいよ混沌のオールドデリーに向け、北上します。
到着。
あれ、なんか雑然としてるな、と思ったんですが、
これでもこの地区ではまともな方なのだと後で痛感する事に(笑)。
ここはデリー地区の江戸城、レッドフォートのすぐ横であり、
ムガール帝国時代から現代に至るまで、デリー地区の中心地となってる一帯です。
先にも説明したように政治の中心点は南に5q離れたニューデリー地区に移ってますが、
いまでも相当な賑わいを残してる地区となっており、多数のマーケットが林立してます。
今回の目的地はその混沌地帯の中に位置するイスラム寺院、ジャーマー マスジド(Jama
Masjid)。
マスジドは日本というか欧米語におけるイスラム教のモスクの事で、
アラビア語で書かれたコーランではマスジドが正式な呼称となります。
キチンとマスジドと呼んでる辺り、インドのイスラム教は今でも生きてるのだなあ、と思う。
ここはイスラム寺院が見たい、という私の希望を聞いて、Kobikkyさんが連れて来てくれた場所なんですが、
産まれて初めてのイスラム寺院としてはかなりの規模で、見事の一言でした。
ちなみに帰国後確認したら、英語圏のイスラム文化研究では、とにかく派手なイスラム建築を造ったのは
オスマント朝のトルコ、サファビー朝ペルシャ、そしてインドのムガル帝国とされてるそうで、
やはりインドは意外なイスラム文化圏なんだなあ、と思う。
入り口はこちら。
横にイスラム寺院の象徴である塔、ミナールや、玉ねぎ型の屋根が見えており、
産まれて初めてのイスラム寺院に来たぜと、本人、大興奮状態。
ちなみにここはデリーどころかインド全土の中でも最大規模のマスジドの一つらしいです。
1656年に完成してるので、完成時期で見るなら徳川幕府江戸城と完全に同世代の建築となります。
ムガール帝国を最初に傾けちゃった困った皇帝、第五代皇帝のシャー・ジャハーンが造らせたもので、
この人は後で見る宮殿を兼ねた城塞レッド フォート(ラール キラー)、そしてアーグラにあるタージマハルなど
とにかく派手な建築が好きな人で、これによって国庫を破たん状態に追い込みます。
さらに四人の息子たちがその後継を争ったため、国内を大混乱に追い込んでしまった皇帝さんでした。
最後は三男のアウラングゼーブが後継争いに勝利、
病身ながらもまだ生きていたシャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉される事になります。
ちなみにその第六代皇帝アウラングゼーブの時代にムガール帝国は最大版図となるのですが、
1707年の彼の死後は凋落の道を全力疾走、最後はデリーとアーグラ周辺だけを版図とする
地方国家となって、イギリスに滅ぼさされる事になるのです。
ちなみにムガール帝国に関しては日本人の石田保昭さんが書かれた
「ムガル帝国」という優れた解説がありますので、興味のある人は一読をお勧めします。
英語圏でも、これだけの詳細な入門書は無いと思われる見事な解説書です。
こちらが入り口。
ちなみに正門(東側)ではなく北口になります。
かなりの高さがあり、寺院もこの土台の上ですから、これ城塞の役割もしてたような気が。
他のイスラム寺院を知らないので、断言はできませんが。
信者の人は当然、地元のインド人も入場無料のようですが、
外国人は300ルピー(約500円)ほどの入場料を取られます。
ついでに宗教施設ですから、ここも裸足が原則で、靴を抜いて入り口横の係の人に預けます。
そこでも確か100ルピー取られたはず。
ちなみにここは完全に裸足のみ、靴下も不可です。
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