■これもセンチュリー



でもってこちらがF-102の後継機、
そしてアメリカ空軍最後の全天候型迎撃戦闘機となったF-106Aデルタダート。

当初はF-102の改良型、B型として開発が予定されていた機体です。
1956年12月、迷走を重ねたF-102Aの部隊配備が始まって間もなく初飛行してます。

エンジンも違えば火器管制装置(FCS)も新型、さらに大幅に自動化された操縦、攻撃装置を持つ、
という機体で、確かに大幅に進化してるのですが、先輩にあたるF-94CとかF-86Dとかも同じようなものでしたから、
なんでこの機体だけ、F-102Bじゃなく、改めてF-106になったのか、どうもよく判らん部分ではあります。

このため、ぱっと見るとF-102と同じ機体じゃん、と思ってしまうところですが、
よく見ると空気取り入れ口の位置が後ろに下がっていたり、三角形だった垂直尾翼の上が切り落とされてたりします。
そして外形以上に異なるのがその自動化で、ほぼ完全自動操縦可能な
ヒューズ社の火器管制装置(FCS)の最新型が搭載されていたため、敵を発見してそちらに向ったら、
後はパイロットはほとんどやる事がない、全て機体まかせ、
という1950年代の機体としては驚異のハイテク機でもありました。
離陸しちゃえば後は着陸までやる事が無い、とまで言われてたそうな。

ちなみに展示の機体は1970年2月に突然スピンに入る事故に見舞われて、
パイロットが脱出したところ、その脱出の反動で機体はスピンから脱出(笑)、
そのまま自動操縦で基地に帰還、着陸してしまった、というスゴイ経歴の持ち主らしいです。
ただし脚を出すのはパイロットの数少ない仕事の一つだったため、胴体着陸となったのですが、
2月の積雪シーズンだったため、損失は小さく、修理の上、復帰してしまったのだとか。
このため、脱出したパイロットより先に、この機体が基地に帰って来たそうな。
恐るべし、F-106ですね…

ただしその導入が始まった1959年7月はすでにスプートニクショック後、
すなわちソ連の核戦略は弾道ミサイルで直接アメリカを攻撃、に変更されてしまっておりました。
となると、もはやソ連から爆撃機が飛んでこない以上、この機体も無用の長物なわけです。
さらに高価だった事もあり、F-106は約340機と極めて少ない生産に終わってしまってます。

とりあえずセンチュリーシリーズ最後の機体であり(F-111は通常含めない)、
そしてセンチュリーシリーズの中で唯一、ベトナム戦に投入されなかった機体でもありました。
この辺りは数が少なすぎた事と、アメリカの防空レーダーシステムの外では
おそらく使い物にならなかった事などがその理由でしょう。



マクダネルF-101B ヴードゥー。
ベトナム編で登場した偵察機型、RF-101Cと同じF-101ですが、
全天候型迎撃戦闘機として使用された方のB型です。
複座な上にカメラ搭載部が無いので、コクピットから前はRF-101Cとはほぼ別物、という形状になっており、
これまた予備知識なしでは同じ機体とは判別できまい、というものになってます。
まあ、その代わり空気取り入れ口から後ろはほぼ同じものですけど。

B型は1959年1月から部隊配備が始まってますから、例の全天候型迎撃戦闘機三姉妹よりは
完全に一世代後の機体で、むしろF-106と並行して運用された機体でした。
本来はアメリカの空の守りの担当はF-106と決まっていたはずですから、
この機体も使い道がなくて泥縄的にこの任務に投入された、という感じでしょう。
空軍の主張によると、F-101Bが長距離迎撃機、F-106が短距離迎撃機、という事ですが…

とりあえず、この時代のアメリカ空軍は完全に迷走してるなあ、という所ですね。
ただしB型はF-101の中ではもっとも多く作られた機体でもあり、
800機前後の全生産数中、約480機がこの型でした。



参考までに再度RF-101Cを載せておきます。
ね、前から見るとほとんど別の機体でしょ。

ちなみにF-101はマクダネ社が開発していたXF-88 から発展した機体で、
これは長距離護衛戦闘機、P-51のような機体として各メーカーに
その要求性能の仕様が示されたものでした。
ところが機体が完成した後に計画はキャンセルとなり、このため宙に浮いたXF-88 は、
急遽、戦術核爆弾搭載の高速戦闘爆撃機に転用されるのですが、
この計画もキャンセルされ、最終的にもうなんでもいいや、
とばかりに偵察型と全天候迎撃戦闘機型が生産されたのがF-101だったと考えていいでしょう。

この辺り、資料ごとにF-101は長距離護衛戦闘機からの転用、あるいは元高速戦闘爆撃機だよ、と
説明が異なっていたりしますが、これはどこまでその設計を遡るかの差になってます。
XF-88 計画まで遡るなら、元長距離護衛戦闘機であり、F-101になってからなら元高速戦闘爆撃機なのです。



ここにもあったAIR-2 ジーニー核弾頭対空ミサイル。
まあ、F-101Bも敵の戦略核爆撃機を確実に落とすための機体ですから、この装備は可能となってます。
ただし胴体部が青いので、これは訓練用の模擬弾ですね。
ついでになんか尾部のフィンが変ですが、これは翼部の収納状態で、
発射後、ジャキンとあの中から翼部が飛び出してきます。
この辺りもまた、F-102&106の格納式弾庫に収めるための工夫だと思われまする。



ロッキードF-104C スターファイター。
1954年に初飛行したマッハ2を超える速度が出せた直線番長戦闘機。
ただしF-101以上によく判らない機体であり、
全天候型迎撃戦闘機に使うには機体が小さすぎてまともな火器管制装置(FCS)も核ミサイルも積めません。
そして戦術核爆弾は搭載出来ましたが、これも機体が小さすぎてまともな運用な困難でした。
このためアメリカ空軍ではわずかな機体(300機前後)を採用しただけで終わってしまったもの。

ちなみに前回見たU-2偵察機の胴体は、このF-104の設計をたたき台としたとされ、
言われてみれば確かに似てる部分があります。
機体の性格としては正反対なんですけどね。

ロッキードの主張によると、同社の天才設計者、“ケリー”ジョンソンが
朝鮮戦争の時のMig-15の登場に刺激され、その開発を始めた機体、とされてます。
しかし機動性の良いMig-15と速度命の直線番長なF-104ではまるで別物ですから、
どうも怪しく、もう少し利権まみれのいろんな経緯があるような気がしますね、この辺り。

そしてこれもスカンクワークスの開発ですから、U-2、SR-71を介して
連中は当時、CIAに太いパイプを持っていました。
このためCIAの責任者ダレスを通じ、彼が強い影響力を持っていた敗戦国、
日本、西ドイツ、イタリアに大量に売り飛ばすのに成功してしまうのです。

直線番長の小型機ですが、戦術核爆弾も搭載出来たため、
西ドイツでは高速戦術爆撃機として採用されてしまい、当然のごとく事故が多発する結果となりました。
ひでえ商売してるなロッキードという機体ですね。

日本の航空自衛隊では、より現実的なソ連の爆撃機を迎え撃つ機体となりましたが、
当時の資料を見る限り、どうも航空自衛隊、これがどんな機体だかよく判ってなかったような…
まあ、そんな戦闘機です、はい。



ベトナム戦争編でも見た世界初の超音速戦闘機、F-100Dスーパーセイバー。
こちらはF-100の単座型で、D型は爆弾積んで地上攻撃もできるようにした型でした。
2300機前後造られたF-100の内、1270機前後、半分以上がこの戦闘爆撃型になってます。

展示の機体はその派手な塗装から判る通り、アメリカ空軍の展示飛行チーム、
サンダーバーズが1964年から4年間に渡って使用していたもの。
ただし最後はサウスダコタ州の州軍が使用ていたため、博物館に寄贈された後、
改めてその塗装を施してるようです。

サンダーバーズの結成は1953年、最初の使用機はF-84Gで最初からジェット機の展示飛行チームでした。
この辺りはF-6FやF-8Fというレシプロ機時代から頑張ってた
海軍のブルーエンジェルスとは違う点です。
このF-100は二代目の使用機となってます。

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