■覗きに行くのもまた冷戦
ボーイングRB-47H ストラトジェット。
1947年に初飛行、1951年夏から配備が開始された
世界で最初のジェット戦略爆撃機B-47、その電子偵察機型がこのRB-47です。
ちなみにB-47はB-29とB-50の後継機、という位置づけたったとされ、
最終的には2000機という、ジェット爆撃機としては異例の大量生産が行われました。
(ただし「戦略」ジェット爆撃機でなければ朝鮮戦争編で見たノースアメリカンB-45の方が先だし、
ドイツのAr234も爆撃機と言えなく無くも無い)
ついでにRB-47Hはこの時代の機体によくある、古くなった爆撃機を後から改造したものでは無く、
32機が完全に新型機として製造されてます。
ちなみに展示の機体は日本の横田基地にも一時配備されていた事があるそうな。
B-47爆撃機は第二次大戦中から開発が始まっており、当初から核爆弾の搭載を前提にしていたようです。
コクピットはパイロットと副パイロットが縦に並んだタンデム式2人乗りで、
(爆撃手兼航法手は機首先端部に乗る。電子偵察型ではその席に窓はない)、
さらによく見ると胴体下の車輪も縦二列、このため左右に横転しないように
内側のエンジンポッドの下から補助車輪が出てます。
なんだか妙な設計ですが、それ以外の部分、後退翼とその下にぶら下げ配置で置かれたエンジンポッドなどは
後の大型爆撃機、それどころかボーイング社の旅客機までの原型となったもので、
終戦からわずか2年、1947年の段階で初飛行した事を考えると、極めて革新的な機体ではあったのです。
RB-47はその電子偵察型で、ソ連周辺を飛んで(という事になってるが多分、領空侵犯をやってたろう)、
その警戒レーダー網を刺激、レーダーの電波、各種無線電波を傍受してデータを集める機体でした。
電子妨害戦、ECM戦においては敵の電波情報が必須ですから、そのための情報収集用の機体ですね。
ただしこの機体の場合、単なる情報収集だけでは無く、自らECM戦を仕掛ける事もできたようです。
ちなみに電波解析などの電子装置の操作員は
爆弾庫を潰して機体内に造られた電子装置室に3人が乗ってました。
おそらくそこもキチンと与圧されていたと思います。
ついでに機首上の黄色いラインは、あの場所にある給油口を示すもので、
給油機側の操作員はあの線の位置を目安に給油用の棹を操作して給油口に差し込みます。
特に電子戦用の機体だと、一度飛びあがったら12時間以上は滞空するのが普通だったようで、
空中給油は必須の作業だったでしょう。
ちょっと見づらいですが、その独特な車輪の配置を。
胴体下に二本ずつの車輪を付けた主脚が前後二個あるだけで、この自転車のような配置の車輪で機体を支えてます。
このため、左右に横転しないよう、内側のエンジンポッド下から補助輪が飛び出してるの、判るでしょうか。
ついでに機体後部の変な出っ張りは電子装備の収容部。
ロッキードU-2A。
この機体、どういうわけか、世界中の博物館でぶら下げ展示になってるのは、
ひょっとして脚が弱くて地上展示に耐えないから?
いわゆる黒い怪鳥で、“ケリー”ジョンソン率いるロッキードの怪しい機体開発チーム、
スカンクワークスが開発した高高度偵察機です。
実機はほんとに音も無く飛んで来る、まさにスパイ機だなあ、というもので、
一度だけ横田の基地際に飛来したのを見た時、ちょっと驚きました。
本来の飛行高度よりはるかに低い所を飛んでたのに、基地上空到達まで全く気が付かず、
気が付いたら飛び去っていた、という感じの機体でした。
1955年に初飛行、当時はあらゆる戦闘機も対空砲も到達できないと思われた高度2万メートルの高高度から
安全に偵察飛行を行うために開発された偵察機です。
ちなみに初飛行の翌年、1956年には早くも実戦投入されており、
よほど最初から完成度が高かったのか、それともアメリカ(主な運用はCIA)側があせっていたのか。
この時期だと、おそらくスプートニクショック(1957年)で、ソ連側のロケット発射基地と、
ICBM開発情報を取りに行ったんだと思いますが。
ちなみに後のキューバ危機でも、キューバ国内のミサイル基地の確認に活躍してます。
冷戦初期のアメリカ軍とCIAは平気でソ連や中国への領空侵犯をやって偵察活動をしていたため、
当時、こういった機体が必要となったのですが、驚くべきことに、一部の機体は未だに現役で飛んでます。
この手の特殊用途の機体はなかなか後継機が造られないゆえの現象ですが、
まさか60年以上も飛び続けるとは、“ケリー”ジョンソンも想像だにしなかったのではないでしょうか。
ただし当時のソ連がアメリカの偵察機が悠々と飛んでいるのを黙って見ているわけが無く、
この結果、多段式の高高度対空ミサイル、ベトナム戦の所で見たSA-2ガイドラインのような
レーダー誘導高高度ミサイルが開発されたのです。
そして後に1960年5月には、実際にソ連が高高度対空ミサイルでこれを撃墜してしまった
いわゆる“U2撃墜事件”が発生します。
この時、パイロットだったゲイリー・パワーズが捕らえられてしまい、
アメリカには大きな痛手になるのです。この辺り、興味のある人は調べてみてください。
ちなみにこのゲーリー パワーズ機の撃墜事件が起きるまで、極秘扱いの機体であり、
CIAはもちろん、アメリカ空軍もその存在を公にしてませんでした。
撃墜直後にエドワーズ空軍基地で、初めて写真撮影を許可し、マスコミへの公開が行われたのですが、
この段階でも、あくまで気象観測機と言い張っていたようです…
ちなみにこの点、日本は例外で、1959年9月に厚木に極秘配備されていたU-2が試験飛行中に燃料切れとなり、
グライダーの滑空場だった藤沢飛行場(現在は荏原製作所の敷地)に緊急着陸した事件が起きていました。
ただし、機体がそれほど重要な軍用機に見えなかった事、
日本国内で強い権限を持っていた米軍が報道管制を敷いたことで、ほとんど知られずに終わってしまうのですが。
ちなみに当時のU-2は昼間から普通に飛んでいたため、厚木に集まる航空機マニアは
かなり早くから機体の存在には気が付いてたようですが、グライダーのような外見、
ジェット機としては極めて低速な事から、それほど重要な機体とは思ってなかったようです。
その約半年後に起きたゲーリー・パワーズ機の撃墜後、
初めてあれはアメリカの極秘任務機だったのだと周囲が気が付き、
直後に国会でも大きくこの事件が取り上げられ、「黒いジェット機事件」の名で知られるようになります。
ちなみに、発生当時は全く注目を集めなかったこの事件を
初めて全国報道したのは当時創刊直後だった1959年11月29日発売の少年サンデーだった(笑)、
という話を見ますが、これは誤認で、その前、おそらく9月中に朝日新聞が一度、トップ記事で
この事件と、その正体がアメリカの機体であることを取り上げてたはず。
(ただし記事を書いた記者本人の談話を読んだことがあるだけで、記事そのものは私は見て無い)
ついでにこの辺り、アメリカがベトナムの空で対空ミサイル地獄にさらされたのは、
そのルーツとして、この機体があったと言えなく無くもないです、はい。
ロッキードSR-71A偵察機。
ブラックバードの非公式愛称であまりに有名な機体。
上のU-2が高高度対空ミサイルで撃墜されてしまった事件を受け、だったら高高度だけでは無く、
ミサイルすらぶっちぎってしまう超高速度をも持った戦略偵察機が必要だ、として開発されたもの。
ちなみに飛行高度も約24000mと、U2よりさらに高くなっています。
高高度でならマッハ3以上を出させるというスゴイ機体で、エンジンは超音速ラムジェット構造を持ち、
衝撃波背後熱対策として、熱に弱いアルミ合金であるジュラルミンの代わりにチタン合金を使ってる、という化け物機。
(ただしチタンの安全温度もせいぜい250度前後で、意外にギリギリだったりするが)
1964年12月に初飛行、1966年1月には実戦部隊に配備されてますから、
これまた初飛行から1年ちょっとでの実戦配備で、ロッキードの偵察機はなんかスゴイですね。
ただし、いきなりSR-71が登場したのでは無く、最初はA-12という単座の高速偵察機があり、それを基に
この複座のSR-71が産まれ、さらには高速戦闘機バージョンのYF-12なども開発されてます。
ちなみにYF-12(F-12)は後に試作機の館で登場します。
ちなみにこちらはあまりに運用経費が高くつき、しかも偵察衛星などによって
もはや高高度からの偵察、撮影の機体が不要になったため、1990年に全て引退となってしまいました。
ちなみに展示の機体も日本の嘉手納基地に配備されていた事があり、
全SR-71の内、もっとも多くの飛行任務(Sortie)をこなしている機体だそうな。
ちなみにSR-71は32機しか製造されておらず、極めて貴重な機体なんですが、
イギリスのダックスフォード、スミソニアン、そしてここ、と英米の大型博物館では意外によく見る機体です。
マーチン RB-57D。
ベトナム戦争編で紹介したB-57、すなわちイギリス製のキャンベラ爆撃機を
アメリカのマーチン社がライセンス生産した機体の偵察機版です。
ただし一見してわかるように、高高度、長距離飛行を狙った長い主翼を持っており、
この辺りは完全に新規設計となっていました。
が、この改造された主翼は強度が不足していたのか、わずか4年前後の運用で破損事故が発生、
それをきっかけに全機引退となりました。
(ただし一部は後に天候観測機、あるいは電子偵察機に改造されて使用されてる)
1956年から部隊配備、という事は上のU-2と完全に同世代ですが、こちらはもう少し常識的な(笑)、
通常の偵察活動に投入されていたようですが、それでも中国、ソ連への領空侵犯は普通にやってました。
で、その偵察飛行の中の一つだった1956年11月のソ連進入は真昼間に堂々とソ連本土上空を突破するものだったため、
ソ連から強烈な抗議が行われ、これをきっかけにアイゼンハワー大統領は空軍の領空侵犯偵察を禁じたのです。
U-2やSR-71の運用が主にCIAに移ったのは、この禁令を迂回するための官僚主義的な誤魔化しだったのでした。
(実際のパイロットは空軍、海軍からの志願者を一度除隊させ、
民間人として再度採用する、といった面倒な事まで一時やってた)
ついでながらよく判らないのがこの塗装で、下を黒く塗ってるのは、高高度飛行ではこの色が
もっとも空に溶け込むからだと思われますが、上だけ白にしてる理由が判りませぬ。
この時代の米軍機で白く塗られてる機体は、核爆撃による熱線対策が多いのですが、
上からだけ白くしてもあまり意味はなく、この辺りは、どうもよく判りません。
ただしビキニ水爆実験などの観測にも使われたらしいので、そのためかな、という気はしますが…
ちなみに20機前後しか作られてないはずですが、一部は台湾空軍にも供与されていたようで、
これらは中国本土に飛んでたのだと思われます。
といったあたりで、今回はここまで。
すみませんが、オマケ編はもう一回、お休みです。
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