■さあ戦争だ
さて、今回から第一ハンガーの東側、第二次大戦の館へ突入です。
個人的にはこの博物館の展示のメインであると思っております。
ただしスミソニアン、さらにイギリスの空軍博物館辺りと比べると、レストア、機体の維持、
ともにやや微妙な所があり、資料性を検討するときは要注意のモノが多いのですが、
それでもここにしか現存機が無い機体もいくつかあり、貴重な展示なのは間違いありません。
ちなみに先にも書いたように、第一ハンガーは、二分割されていて、西側が前回まで見学した内容、
東側がこの第二次大戦の展示ですが、両者は1/2ずつ分割されてるわけではなく、
こちらの方がずっと広い敷地面積を持ってます。
1:2くらいの面積差があると思います。
で、前回の記事からこっそりと使用が開始されていた
超絶ステキ棒タイプRことUSSR(Ultimate
Suteki
Sutick typeR)、この記事から本格始動です。
誰も覚えてないでしょうが、2014年のタイで地味なデビューを飾ってから3年、
いよいよ1080円の値段にふさわしい活躍が期待される日が来たのです。
これで身長2m50p以上無ければ撮影不可能な世界をガンガンお見せいたしましょう、はい。
そのUSSRで撮影したカーチスP-36A。
アメリカ参戦から展示が始まるので、真珠湾の朝、といった要らぬドラマ性を加えた展示になってます。
P-36はアメリカの戦間期における最後の戦闘機の一つ。
1935年の陸軍新型戦闘機の競作公募に、次に紹介するセヴァスキーのP-35と共に参加して
破れたものの、戦争が近いとみた陸軍によって復活採用された機体です。
(実際はいろいろ利権まみれの決定の印象もあるが、とりあえずそういう事にしておく)
すでに航空後進国からの脱出が見えつつあったものの、
同じ1935年5月に初飛行した機体に、ドイツのメッサーシュミットBf-109があり(P-36が23日だけ早い)、
10か月後の翌年1936年3月にはスピットファイアも初飛行にこぎ着けてますから、
ちょっとまだまだヨーロッパに追いついてた、とは言い難い性能の戦闘機でしょう。
ただし、この機体の2が月後には時代の最先端を行く爆撃機、B-17が初飛行してますんで、
そこは戦略爆撃命のアメリカ陸軍航空隊、爆撃機ではすでに世界のトップレベルでした。
戦闘機がイマイチだったのは、技術的な面と同時に、そもそもそれほど力を入れて無かったからなのです。
アメリカが戦闘機の重要性を痛感し、P-51の存在に心底感謝することになるのは、
参戦から1年近く経ち、ドイツ占領地区への爆撃を開始してからでした。
既にポーランドの戦いでも、バトル オブ ブリテンでも、戦闘機無き航空戦力は無力だ、
と証明されていたのに、この人たちは、全く学習して無かったのです。
初飛行から3年近く経った1938年から配備が始まったP-36ですが、
間もなく液冷エンジン搭載のP-40に改造されてしまったこともあって、
アメリカ軍が採用したのは250機未満とかなり少数でした。
しかもこれ、本来は調達予定に入って無かったノルウェー向けの輸出機を含めた数字です。
(1942年にナチスドイツがノルウェーを占領後、宙に浮いた30機を陸軍が引き取った)
ちなみに輸出用の機体は、タイ空軍博物館で紹介したようにホーク75という名で、
一部は固定脚だったのですが、P-36は全機引き込み式の脚を採用してます。
アメリカの参戦時にはすでに旧式機と認識されていたため、ハワイ、アラスカと言った僻地に
配備されたてたのですが、その結果、真珠湾攻撃に立ち会った戦闘機となってしまいます。
(P-40もハワイには配備されており、こっちが主力だったが)
アメリカ陸軍の公式記録では、真珠湾攻撃時には6機の陸軍戦闘機が離陸に成功、
内2機がこのP-36Aだっとされてます。
その一機が日本機の撃墜を申請、これを認められており、
展示の機体はその機体の塗装と当日の朝の状況を再現してるようです。
もともとは、1959年に民間人から博物館に寄贈された機体だそうですが、
どうもアメリカ向け生産1号機のようですね、これ。
セヴァスキー P-35。
上のP-36と同世代の戦闘機で、初飛行は1935年の8月。
先に説明した1935年の戦闘機競作に参加、勝者となり、
アメリカ陸軍初の引き込み脚、密閉型コクピットの戦闘機となりました。
ただしセヴァスキーの生産能力の問題、その他のトラブルなどによって、
76機とあってないような機体の数で採用は打ち切りとなってしまいます。
開戦時には完全に旧式機で、マッカーサーの居るフィリピンに押し付けるように送られてたのですが、
実戦に参加できたのか、地上でみんな撃破されてしまったのか詳細は不明。
一方、意外に輸出は順調で、日本にも複座型が20機ほど売られたほか、
スウェーデンでも60機を購入しています。
ただし、日本での評価はさんざんで、とっとと民間の新聞社などに売られてしまいましたが…。
ちなみに上のP-36と合わせ、ジュラルミンの金属地むき出しの無塗装ですが、
本来なら第二次値大戦参戦直後のアメリカ陸軍機はオリーブドラブ(カーキグリーン)塗装が標準でした。
レストアが適当なのか、とも思いましたが、当時の写真を見ると確かにこの2機は無塗装で、
以後のP-38、39、40からオリーブドラブ塗装になってます。
ひょっとしてまだお金がなくて塗装もできなったのか、という気がしなくも無くもないですが、
その辺りの理由はよくわからず。
ついでにジュラルミン金属地がこんなにピカピカに輝く事は普通は無く、
よほどワックスでピカピカに磨き上げたか、下手をすると一部にはジュラルミン以外の金属、
ステンレスかクロームメッキの鋼板かを使ってレストアした可能性すらあるような。
ここのレストア、いまいち信用が置けないからなあ…
ちなみによく知られてるように、戦争末期、
1944年1月以降に製造されたアメリカ陸軍向けの機体も無塗装が標準となり、
ジュラルミンむき出しでワックス仕上げをしたもの、
あるいは軽くクリアコートを吹き付けられたものにに替わります。
(ただし輸送機、軽連絡機(L番台機)など、戦闘に直接参加しない機体は例外)
これはアメリカが塗料不足に陥ったわけではなく、無塗装の方が速度が出る、
という事が実験で証明されたからでした。
当時の航空機の塗装面は凸凹が多かったため、機体表面の気流の乱れを生んでいたようです。
だったらアメリカの航空基地が空襲を受ける事はまずあり得ない以上、
迷彩はあまり意味が無いので、全て剥がしてしまったのでした。
(オリーブドラブ迷彩の主要な目的は地上駐機時に上空から見つけられないようにするためだ)
この結果、戦闘機では8マイル(12.8q/h)前後の速度上昇となったとされています。
もちろん、副次的とはいえ、生産コストも多少、下がったはずです。
さらに爆撃機などの大型機では、塗料の重量も馬鹿にならず、B-17では塗料の重量だけで
300ポンド、約136sにもなると見積もられ、これまた地上で襲撃される事はないですから、
全て無塗装に変更、速度と加速性能の向上が図られたのでした。
が、これらはアメリカ参戦から2年以上経った1944年1月以降の生産機の場合ですから、
このP-35、そして上のP-36が無塗装なのは、別の理由のはずです。
……やっぱりお金なかったんじゃないかなあ…。
ちなみに日本の陸軍機のほぼ無塗装、緑の迷彩を入れただけ、
という機体たちは、単に塗装してる余裕(資源、コスト両面で)がなかっただけしょう。
日本が無塗装の高速化の実験をやったという話は聞いたことないですし。
展示の機体はアメリカ国内で訓練用などに使われていたもので、
退役後、そのままこの博物館に送り込まれたみたいです。
9年ぶりの再会で元気そうだったハンサム ジョー。
この昭和の遊園地の遊具みたいな装置は計器飛行訓練装置。
夜間や荒天時に計器だけに頼って飛行する訓練に使われる装置で、無論、大真面目なものです。
が、これの展示にあんなハンサムなマネキンを載せる理由が良く判りませぬ。
ちなみに訓練時には上のフタを閉めた状態で操縦桿、舵を操作します。
主翼や尾翼はサービスで付いてるわけではなく、パイロットの操作に合わせて
キチンとエルロンと舵が動き、それによって正しい方向に向かってるか、
教官が外から見て判断してたようですが、詳細は不明。
本来はこの愉快な装置を制御する制御盤などと一体で使われてたはずですが。
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