■アメリカの色々と日本のいろいろ



その奥にあった液晶パネルは意外に興味深い情報が見れました。
中華民国空軍で使用していたB-25の各種塗装とか。
中美混合団となってますから、アメリカの支援部隊との共同運用だったと思われます。

ちなみにH型まで使ってたのね、中華民国軍。
これらが全部残ってれば、立派な航空博物館が造れたのになあ、中華民国軍。



さらに興味深かったアメリカ支援部隊&中華民国空軍による戦果表。
左端の数字が中華民国暦で、1911年の辛亥革命が元年ですから、+1911してやると西暦になります。

これで見ると、空中戦の撃墜が予想以上に多く、1943年でも撃墜確実が41機、
1944年に至っては107機、撃墜の可能性高しでも42機、合わせると149機の日本機を
空中戦で落としたはずだ、と主張しています。
まあ、輸送機であろうか偵察機であろうが全部を含む数字、さらに自己申告ですから、
実態はもう少し低調だと思いますが、それでも意外にがんばってますね。
ちなみに156機が地上で撃破、となってますから、こちらも末期の日本軍からすると意外に大きな損失です。

ついでに1945年になると、撃墜数が激減するんですが、
地上撃破の数はほとんど変わらないので、
中国でもほとんどの日本機は燃料不足で飛べずに地上に置かれたままだった、という事でしょうか。

もっともこの表、よく見ると1945年の航空攻撃による撃破船舶数が5654隻と、
どこにそんな船があるんだよ、と微妙にいろいろ怪しかったりもするんですがね…
ジャンク船とかを入れたとしても、過大でしょう、この数字。



日本軍の携帯警報機とされてたもの。
おそらく陸軍の地上部隊が使ってた空襲警報機で、敵機を見つけたら
右側の取っ手を握って奥のハンドルを回しサイレンを鳴らして味方に避難を勧告するもの。



第三次長沙会戦の戦利品の日本軍の薬莢。
薬莢に刻まれた文字はてっきり中国軍が彫り込んだものだと思ったんですが、
よく見ると一番上だけが中国語で、下は第三次帰国、第四次帰国、
と書かれた文字の下に日本人の名前がズラリと入ってます。
どうも元は日本軍の偉い人にでも贈られた記念品だったんでしょうか。

ちなみに日本側では長沙作戦は第二次までしか行って無いので、第三次って何?と思ったんですが、
よく見れば会戦となってますから、おそらく第二次長沙作戦の最後の戦闘を指すのだと思います。
1941年12月、日米開戦直後に行われたのが第二次 長沙作戦ですが、
これは散々な敗退に終り、翌1942年1月には全面徹底に追い込まれます。
この時は日本軍は補給を断たれ、無茶な進軍の結果、悲惨な戦闘に終わってますから、
中国側が戦勝を宣言しても、当然の処ではありますね

太平洋戦争開戦直後は無敵皇軍大進撃という事になってますが、実はそうでもなく、
よりによって中国本土で侵攻作戦に失敗してました、日本陸軍。
この辺りは、日本の陸戦史における最高レベルの研究者、佐々木春隆さんが実際に従軍し、
詳細な記録を「長沙作戦」という本にまとめてます。
今では文庫にもなってますから、手に入りやすいと思われますので、
興味のある人には一読をお勧めいたします。



いわゆるカニメガネ、塹壕などから頭を出さずに見るタイプの望遠鏡で、
これも日本軍のものだとか。
意外に凝った構造なんですね、これ。


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