■またも朝鮮半島を上下して
さて、ここからの展示は、朝鮮戦争のおおまかな流れを
知ってないとイマイチよく理解できません。
なので、ごく大雑把な戦争の流れを最初に見ちゃいましょう。
開戦前にアメリカが韓国の防衛放棄を世界に向けて宣言してたり、
例の自分大好き大統領 李さんが実は直前の選挙で惨敗してたり、
北朝鮮が韓国に対して統一案を突きつけて拒否されてたりと、
いろんな動きがあるんですが、そこら辺りの開戦前の話は今回はパス。
とりあえず、開戦後の動きだけを追いますよ。
さて、全ては1950年6月25日朝4時にスタートとなりました。
北朝鮮の金ちゃんが、ソ連のスターリン閣下と示し合わせて
朝鮮半島完全制覇をもくろんだ結果、協定ラインの北緯38度戦を超え、
怒涛のように南下を開始します。
■1950年6月25日〜8月上旬まで
実は北朝鮮の金ちゃんは見た目ほどアホの子ではなかったので、
ウンザリする位の戦車を一気に投入する、
という機甲戦の大鉄則を死守、大量のT-34/85で半島南端を目指します。
この点、航続距離が長く、長距離走行にも向いてた
T-34/85が主戦力だったのも幸いしてます。
で、この段階で金ちゃんは敵の抵抗はほとんどない、と見ていました。
これは韓国軍の実力を知っていたのと同時に、
韓国の皆はボクを歓迎してくれるはずだ、という彼の生涯を貫く、
妙な自信が根拠になっていたようです(笑)
で、理由はともかく(笑)、結果的にはこの戦略は見事にあたり、
わずか3日後の28日はソウルを完全占領してしまうのです。
その後も北朝鮮の戦車軍団は韓国軍を速攻で蹴散らして南下を続けた結果、
あわてて派遣されてきたアメリカ陸軍の
先遣部隊ごと半島南端のプサン周辺まで追い込んでしまいます。
まさにあと一歩で、朝鮮半島統一、という状況です。
ちなみに、この間前線に送り込まれたアメリカ兵は日本占領任務を前提とした
全くの新兵ばかりで、この後、8月にかけて数千人が精神面をやられて
戦闘不能になったと言われてます。
これが開戦後、約1ヶ月後の状態となります。
第二次大戦中盤の最強戦車T-34、その発展型で大戦末期に登場したのが、
この戦争記念館にも展示されていたT-34/85です(後でまた登場)。
朝鮮戦争の時代には既に時代遅れとなっていた戦車ですが、
まともな対戦車装備も持たず、せいぜいシャーマン戦車しかない連中相手なら、
まだまだ無敵ってな位の破壊力を持っていました。
余談ながら、北朝鮮がソ連から有償(笑)供与された戦車の多くは、
元々は太平洋戦争末期のソ連参戦時に日本軍相手に投入された車両だったようです。
さて、一度は朝鮮半島の面倒はもう見ません、と宣言したアメリカですが、
さすがに武力制圧で共産国家が半島を統一するのを
見逃すわけには行かず、急遽、参戦を決定します。
ちなみにこの時の、トルーマン大統領によるラジオ演説の内容も壮絶で(笑)、
韓国はアメリカから遠く離れた、小さな国だけど、
自由諸国の安全のためには何とかしなきゃなの、わかってちょうだい、
という、今なら外交問題になりかねない侮蔑的な内容でした。
それだけ、当時の世界では関心が低く、
現地に来たアメリカ兵が、で、ここは日本なの、中国なのと聞いた、
という話があるくらいですから、まあ、そういった感じだったわけです。
が、参戦を決めたものの、中国とソ連には軍事同盟が存在し、どちらかが
日本(当時はまだ非武装なのに(笑)…)かアメリカから攻撃を受けた場合、
協力してこれらに宣戦して戦う、とされてました。
でもって北朝鮮のバックに中国が居るのはアメリカも知ってましたから、
万が一中国軍と交戦することになった場合(実際、後でそうなる)、
ソ連を巻き込んで第三次世界大戦へ自動的に突入、となってしまいます。
この前年、1949年にはソ連も原爆の開発に成功してましたから、
これは洒落にならんと、トルーマンは考えたのです。
そこでアメリカは当時、ソ連が欠席していた国連に目をつけ、
国連決議をとりつける事で、アメリカ軍ではなく国連軍として参戦します。
もし中国軍とぶつかっても、僕らは国連軍ですから、
ソ連の応援を呼ばないでね、という理屈ですね。
その副産物として、世界各国の軍隊の支援部隊が半島に集まるのですが、
イギリス軍をのぞくと、戦力的には、ほとんど意味がありませんでした。
これが6月24日から、その約1ヵ月後、8月2日くらいまでの状況です。
■1950年8月中旬〜11月末まで
さて、そんな国連決議やら何やらで準備にえらく手間取ってしまうアメリカですが、
徐々に反撃の手を打ち始めます。
まずはフィリピンに居たエセックス級空母、バレーフォージと
シンガポール近海に居たイギリスの空母、トライアンフを中心に、
第77機動部隊(TF77)が急遽結成され、半島近海に派遣されます。
7月に入って黄海に入った第77機動部隊は7月3日から活動を開始、
いきなり北朝鮮の心臓部、ピョンヤンの空軍基地、鉄道操車場を空襲。
北朝鮮の進撃開始から、約10日でようやく本格的な反撃が始まったわけです。
驚いたのは金ちゃん率いる北朝鮮軍でした。
金ちゃんは見た目ほどアホの子ではなかったのですが、
かといって別段賢くはなかったので、
航空戦力に関しては、それほど充実させておらず、
この襲撃に対しては全く無抵抗で、なすがままとなりました。
そして、以後、一貫して朝鮮半島の航空優勢はアメリカ(国連)軍側が握り続けます。
一方、7月7日の七夕には国連軍設置がようやく国連で可決され、
日本に居た陸軍のマッカーサーが最高責任者に任命されました。
ほぼ同時期に米本土の太平洋沿岸から陸軍と海兵隊の精鋭部隊の輸送もスタート、
これらが7月下旬から8月上順にかけて、
続々と日本とプサン最終防衛ラインに到着します。
この時期でも半島におけるアメリカ軍の撤退は続いているのですが、
7月25日以降の撤退はむしろ戦線の整理と、敵を半島南端に引き付ける陽動、
すなわち戦略的な狙いをもった撤退になって行きます。
そして8月7日、本格的な戦車部隊が半島南部に到着するのを待って
プサン地区からアメリカ(国連)軍が反撃を開始します。
北朝鮮の補給が延び切っていたこと、
T-34/85を撃破できる対戦車兵器が全軍に装備されたことにより、
今度はアメリカ(国連)軍側の怒涛の快進撃がスタートなりました。
この間、対ヨーロッパ戦争で鍛え上げられたアメリカの物流網が再始動し、
驚くべき素早さで、膨大な海上輸送を実現します。
さらにアメリカの凄いところは、軍の北上に沿って素早くトラックによる
輸送網を構築、山岳部が多い朝鮮半島の輸送に対応して
ロープウェイによる輸送ルートまで作ってしまっています。
ただし、1950年末にその進撃速度がさらに上がるとさすがに対応が遅れ、
この輸送網の対応の遅れが、後の大後退の一因にもなるのですが…。
そしてプサン周辺からソウル目指して北上する軍に加え、9月15日には
ソウルに近い港湾施設、インチョン(今は例の仁川国際空港がある)にマッカーサー自らが
別働隊を率いて上陸、26日にはソウルを占領してしまいます。
ただし、このインチョン上陸作戦が国連軍の反撃開始だった、とする話をよく見ますが、
それは誤りで、その前からすでにプサン地区からの反撃はスタートしていました。
そして、そちらの軍勢もすでにソウルに近づきつつあったのです。
で、実は北朝鮮軍は、最初に投入したT-34/85軍団以外、
ほとんどまともな軍事力を持っておらず(涙)、
この後は完全に潰走状態に陥ってしまうのです。
その後、10月1日にあまり意味はないものの(笑)
とりあえず大義名分上、地元の韓国軍が先行する形で38度線を突破、
その後、主力部隊であるアメリカ(国連)軍も7日にこれを超えます。
そしてアメリカ(国連)軍が10月20日にあっさりピョンヤンを占領すると、
26日には中国国境線付近にまで北朝鮮軍を追い詰めてしまうのです。
誰もがこれで戦争は終わり、と思ったはずで、
実際、マッカーサーは10月1日の段階で最初の降伏勧告を出しています。
ところがどっこい、350年前に秀吉プロデュースの軍隊が経験したのと
同じサプライズがマッカーサーを待っていました。
冬の訪れと共に、国境の鴨緑江を超えて密かに半島に進出していた
中国の共産党軍の大部隊が、突然、反撃に出るのです。
■1950年12月〜1951年1月24日まで
それまでもいくつかのアメリカ(国連)軍部隊から、
中国共産党軍が参戦してるようだ、という情報は入っていたものの、
マッカーサーはあまり気に留めた様子もなく、1950年11月24日、
「フフフ…これで決まりだぜ」と最後の攻勢を前線部隊に指示しました。
ところが、これを待っていたのが中国共産党軍でした。
翌日の11月25日、相手が動いたところで大規模な反撃をスタート、
有名な人海戦術を使い、人数による力技で国連軍の前線を突破してしまいます。
この攻撃は完全にマッカーサーの不意をつく形になりました。
以後は迷走に近い状態にアメリカ(国連)軍は追い込まれ、
12月5日には早くもピョンヤンを奪回されてしまいます。
さらに悪いことは重なるもので、この撤退線の真っ最中、12月23日に
アメリカ(国連)軍の前線指揮官、ウォーカー中将が
移動中の交通事故で死亡してしまう事件が発生します。
そもそもマッカーサーの指揮官としての才能は三流以下ですから、
攻勢で勢いがあるときは何とかなったものの、
守勢に回って慎重さと判断力が要求されると、
まったく何もできない状態になりました。
そこに前線司令官の事故死による混乱が重なり、
年明けの1951年1月4日には再び、ソウルを奪回されてしまうのです。
ところが、ここで20世紀のアメリカ軍の特徴、奇跡のように
必要な人材が必要な場所に現れる、がまたも発動します(笑)。
ウォーカーの後任の前線指揮官に、リッジウェイが着任するのです。
リッジウェイは大戦中のノルマンディー上陸戦を皮切りに、
多くの実戦経験を積んでいた上に、異常なまでのリーダーシップの持ち主でした。
彼がウォーカーの跡を継いで指揮をとるようになると、
ソウルの防衛をあえて放棄した事もあり、完全に前線を立て直す事に成功します。
■1951年2月以降〜1953年の休戦まで
で、この間、狼狽して何をやってるんだかよくわからん状態にあった
最高責任者のマッカーサーは放っておいて、
現地指揮官のリッジウェイは着任約1ヵ月後の1月25日に反撃を開始します。
実はこの前後に、中国軍がなぜか進撃を停止、一部が北上を始める、
という情報が航空機の偵察から得られていたようです。
この反転の原因はなぜかわかりませんが、
リッジウェイは素早くこの行動に反応した事になります。
この結果、北朝鮮軍より遥かに頑強だった中国共産党軍の抵抗をはね退け、
3月14日までに3度目のソウルの完全奪回に成功、再び北上を開始します。
ちなみにソウルはわずか1年の間に4回も支配者が交代した事に…。
ただし、この時期は雪解けの時期にぶつかったため、
その進撃は極めてテンポの悪いものでした。
その後、旧38度戦付近にまで戦線を押し戻して、戦線は膠着状態に入ります。
中国共産党軍の頑強な抵抗にあったのと、
停戦を模索する政治的な配慮、さらに何で韓国の領土拡大のために
アメリカ人が死ななきゃならんのだ、というトルーマンの最もな疑問から、
これ以上の進撃を中断、以後、休戦の1953年まで、
2年近い膠着状態に入ります。
ついでに、アイゼンハワーの配慮などから、この時期から徐々に兵力の中心は
韓国軍に引き継がれていったようです。
ただし、1953年に入ると、休戦時の戦線で国境を引く、
という取り決めが明らかになり、
最後の最後で、少しでも有利な国境線を確保しようと、
再度、激しい戦闘が行われ、その後で休戦に至ることになります。
ちなみに今でも朝鮮半島の国境線を38度線と呼んでますが、
こういった理由によって北緯38度の線には全く沿ってないものになってます。
ついでに最高司令官のマッカーサーは、中国共産党軍の出撃に狼狽し、
中国本土への攻撃や、中国への牽制として台湾の参戦を求め、
さらに38度線での進撃停止にも反対した結果、
トルーマン大統領と対立、例の3度目のソウル奪回から約1ヵ月後、
1951年4月15日に、最高司令官を解任されています。
その後任には現地で指揮を執っていたリッジウェイが就きます。
余談ですが、後に彼がアメリカ議会で行った引退演説は、
完全に自分に酔っていて、気分が悪いくらいに芝居がかってるのが
日本人が聞いても、よくわかります。
この人の人柄を知るのに良い資料ですから、
興味のある人は聞いてみてください。
個人的には最後のGood
bye の言葉に悪寒が走りましたよ…。
といったところが、朝鮮戦争のおおまかな流れです。
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