この機体、写真のように飛行状態の真横から撮影できる、
というスゴイ展示になっていました(現在はわからない)。
横から見ると、全体的に流れるようなラインでまとめられてるのが、よく判ると思います。
1936年3月に初飛行した機体としては、極めて先進的なスタイルでしょう。
スピットファイアは、Bf-109(Me-109)より1年遅いものの、
アメリカのF4Fワイルドキャットや日本の固定脚戦闘機、中島の97式戦闘機より
半年早いのですから、まあたいしたものだなあ、と思います。
横から見ての注目点その1は、コクピット正面に貼りついた板状のもの。
これは分厚い防弾ガラスをはめ込む枠で、この点から
そもそもスピットファイアは対爆撃機の迎撃が主任務だ、とわかります。
戦闘機同士の戦闘ではケツの取り合いになりますから、
正面方向の防弾はそれほど重視されません。
ケツから弾を撃つ戦闘機なんてほとんど居ませんから。
(何事にも例外はあるけども(笑)…)
対して、爆撃機の迎撃の場合、相手のケツについても、上から襲っても、
その銃座から派手に撃ちまくられますから、
コクピット正面の防弾ガラスは必須となります。
ついでに主翼端のラインと機体が平行でないのにも注意してください。
これが、いわゆるねじり下げ(Wash
out)ですね。
ご覧のように、主翼全体が胴体付け根から手前の翼端に向け、
ゆっくりと下向きにねじ下げられてます。
これがねじり下げ(Wash
out)と呼ばれる構造です。
スピットではその角度はわずかに2.5度なんですが(というかほとんどの機種で2度前後)、
見れば判る、という角度ではあります。
これは翼端が狭くなってる楕円翼では
高い迎え角(気流に対して機首を上げる)を取った場合、
翼端失速が起きやすくなる傾向があるため、その対策です。
本来、理論上は翼端失速が起きない、というのが楕円翼の利点のはずだったんですが、、
現実には翼弦(翼の前後幅)が短くなると失速が起きやすくなり、
かえって楕円翼の本質的欠陥となってしまってます。
翼端部が失速すると、そこにあるエルロン(補助翼)が効かなくなるため、
機体が操縦不能となってしまい、
低高度の離着陸時にこれが起きると、ほぼそのまま墜落に至ることに…。
よって、このままでは危険すぎて楕円翼なんて使えません。
ただし、これは高い迎え角(機首を上に向ける状態)を取らない限りは
そう簡単に発生しないので、その状態での対策があれば問題は解決です。
よって、翼全体をゆるやかにねじって、翼端を少し下に向けておけば、
機体が高い迎えを角を取った時でも、翼端の迎え角は少し浅い角度になります。
こうして翼端部が常に胴体部より浅い迎え角になるようにすれば、
翼端失速が発生しにくくなるわけで、
原始的ながら極めて有効な対策がこの“ねじり下げ”なのです。
なので主な目的は離着陸時の失速対策なのですが、
戦闘機などでは急旋回中も高迎え角状態になるため(横向きにだが)、
空中戦時の翼端失速対策にもなってるようです。
お次はちょっと下から。
主翼に採用された楕円翼の構造がよく判ると思います。
スピットの最大の謎がこの楕円翼です。
まず、そもそもなんで楕円翼が採用されたのかが、わかりにくい(笑)。
楕円翼は誘導抵抗が低いこと(燃費がいい)、翼端失速の悪癖が無いことが特徴と思われてたんですが、
前者は高速飛行の戦闘機では意味が無く、後者は完全に間違いだった事が判明しており、
じゃあ、なんで?ということになります。
正解は高速飛行に向きながら、主翼内部に兵装と脚の十分な収納空間が作れるから、
なんですが、これを理解するには若干の脱線が必要です(笑)。
楕円翼は1920年代に入り、航空機の設計が流体力学基づくようになった成果の一つで、
1919年に発表されたランチェスター=プラントル理論に基づくものです。
(ランチェスターはイギリス人、プラントルはドイツ人 両者の共同研究)
この理論では主翼周辺に発生する渦から、主翼各部の揚力係数が予測できる事が説明され(多分…)、
この理論によって職人的な主翼設計から、一気に理論に基づく科学的な主翼設計へと変化して行きます。
(さらにレイノルズの研究(レイノルズ数)の登場が必要だが)
ただしこの理論はかなり難解で、少なくとも私には半分も理解できませんでした…。
とりあえず、ランチェスター=プラントル理論に基づいて、理想の主翼形を計算してみたら、
楕円型が最も優れてる、ということになったのです。
理想的な揚力の発生が期待できる上に、翼端失速も無ければ
誘導抵抗も小さくなる、という事になります。
まあ、あくまで理論上の話で、実際、そんなにウマイ話は無かったんですが、
それでも1930年代中盤にちょっとした楕円翼ブームが
航空業界に発生する事になります。
おそらく最初に本格的に楕円翼を取り入れたのが、
ドイツの脅威の一卵性双子設計チーム、ギュンター兄弟です。
余談ですが、ライト兄弟、ギュンター兄弟、ホルテン兄弟と、
なぜか航空業界には兄弟での活躍が多いですね…。
ギュンター兄弟は後にハインケル社に引き抜かれて活躍するわけですが、
彼らが楕円翼の研究を始めたのが1930年前後、
その最初の成果となったのが、1932年12月に初飛行、
世界の航空史に強烈な影響を残す高速機、He-70でした。
これが後の楕円翼ブームの先駆けとなります。
でもって、同時期に楕円翼に興味を示した設計者がもう一人いまして、
それがゼロ戦のパパ、我らが堀越閣下です。
彼の最初の作品と言っていい1933年2月初飛行の7試艦戦(名の通り試作機)で
いきなり楕円翼を採用、大失敗してます(涙)…。
He70とは正反対にこの機体はどう見ても失敗作で(宮崎さんいわく、みにくいアヒルの子)、
ここら辺り、よく研究もせず新しいものにすぐ飛びつく
ホリコシちゃんの性格がよく出てると思います(笑)。
ねじり下げも入れてませんから、飛ばして見てびっくり、だったでしょうね。
離着陸は相当怖かったと思いますよ、この機体。
(理論的には翼端失速は無いはずで、さらに小型模型の風洞試験でもこの欠点は見つけられない。
実物大の機体で初めて起きる現象で、彼がまともなデータを持たずに設計してたのがわかる)
ちなみにホリコシちゃんは、後に96式艦戦(の試作型の9試単座戦闘機)で臆面も無く
それが正解だったか、とHe70の技術を徹底的にパク…参考にし、
(ただし本人は当然、盗作を否定(笑))
再度楕円翼を採用、これを傑作機に仕上げてしまいます。
何かお手本がある限り、彼は優秀なんですよ(笑)。
いいか悪いかわかりませんが…。
というわけで、どうもここら辺りからして、1930年前後に、何か楕円翼に関連した
重大な研究発表があったんだと思いますが、ちょっと確認できませんでした。
もしかすると、この時期に初めてランチェスター=プラントル理論の全ての計算結果が出て、
(なにせ計算が膨大で面倒なのだ)
どうも楕円翼がいいらしいぜ、となったのかも。
(この頃普及し始めた金属製の主翼は木製翼より楕円翼に向いてた、という話もあり)
で、ハインケル社のHe70は本来、民間用の小型高速機だったんですが、
この時代(1932年12月)だと、ドイツの再軍備計画が水面下で進んでおり、
いざとなったら軍用機に転用できる、という前提で設計されていたと思われます。
実際、He70の基本設計を流用して、のちにハインケル社はHe112戦闘機を開発してますし。
(ドイツ空軍による戦闘機の競作でBf-109に敗れて採用されなかった機体)
ちなみにHe70本人も後に偵察機、高速爆撃機として採用されるのですが、
軽量化のために採用していたマグネシウムが敵の小銃弾でも簡単に発火してしまう、
という思わぬ欠点が発覚、軍用機としてはさほど活躍しないままで終わります。
で、このHe70は当時としては革新的な高速性能を持っており、
これに衝撃を受けたスピットファイアの主任設計者ミッチェルと、
主翼の設計を担当したシェンストンはHe70を徹底的に調査してます。
実際、シェンストン、ミッチェル共にハインケル社に楕円翼に関する問い合わせの手紙を出しており、
意外にもハインケル社側から詳細な回答を受け取ったと言われています。
その影響からスピットファイアの主翼が生まれることになるのです。
が、実はHe70のすごさは、当初全く予想されてなかった利点、
すなわち楕円翼は内部空間が広くて多くの機材が積み込め、しかも高速に向いてるのを証明した事でした。
この結果、He70は1932年初飛行の機体ながら主脚は収納式となっており、最高速も377km/hと、
当時の民間機ではずば抜けた数字をたたき出してました。
(He70の半分の重さしかない同年初飛行のアメリカの戦闘機、ロッキードP-26と同速度。
エンジン馬力はHe70の方が20%前後大きいが、それでもこの速度はスゴイ)
主翼はかなりの重量物で、とくにロール(進行方向を軸に機体を回転)機動の場合、
胴体から遠くにある主翼端の面積が大きく(空気抵抗が大きい)かつ重量が重いと、
主翼付け根に巨大な力が掛かり、
このため、やたら頑丈に造る必要が出てきて、機体が重くなります。
なので、航空機の主翼は基本的に翼端に向けて、翼弦(翼の前後幅)を狭くし、
主翼の重量が翼端に近づくほど軽くなるようにしてあります。
通常は翼端に向けて直線的に翼弦(翼の前後幅)を狭くするのが主流です。
これが工作と設計が楽なテーパー翼です。
それに対して丸みを帯びた楕円翼は、翼弦(翼の前後幅)が長く取れる、という意外な副産物がありました。
直線的に翼端に向けて翼弦が絞り込まれるテーパー翼が、戦闘機の主翼でも主流です。
写真はP-51のもの。
下が前ですが、胴体付け根部分の主翼が少し前に飛び出してるのに注意してください。
よく見るとここに脚が収納されてるのがわかるかと。
単なるテーパーでは脚を収容する空間が確保できなかったんですね、これ。
さらにP-51の場合、ラジエターも胴体下に積んでます。
これはこれで大正解だったのですが、逆に言えばそれだけ主翼内に余裕が無かったということです。
対してこちらがスピットファイアの楕円翼。
緩やかな曲線で翼の端に向けてゆっくり絞り込まれるため、翼弦(翼の前後幅)に余裕があり、
脚もそのまま主翼に収容してますし、その上、ラジエター類まで積んでこの余裕。
さらにMk.Iでは片側4門もの機関銃を中に入れてるわけですから、たいしたものです。
この収納性の高さが、楕円翼の意外な特徴でした。
この余裕によって、後に強化されるラジエターもオイルクーラーも20mm機関砲も、
片っ端から主翼に搭載してしまっています。
スピットの発展性の高さを支えた、一つの秘密兵器が、楕円翼の収納性の高さなのです。
さらに翼弦(翼の前後幅)が長いと、同じ翼の厚さでも高速に向く、という特徴があるんですが、
このあたりの原理はちょっとヤヤコシイので、今回はパス。
とりあえず、主翼内にたくさん収容できて高速にも向いてる、というステキな翼となるわけです。
この点を最初に発見し、採用したのがHe70だっという事ですね。
ただし、設計も生産も面倒、という欠点があり、
後にドイツでは楕円翼だったHe111を普通のテーパー翼に変更してしまったりもしてます。
もっとも、スピットの主翼を設計したシェンストンは、あれはHe70の単なるコピーではない、と
あちこちで強調してますし、実際、構造的にはまるで別物です。
(彼によると高速性より、その8丁の機銃が積める収容能力が採用の理由だとのこと)
それでも強烈な影響を受けていたのは間違いないでしょう。
イギリス人は認めたがりませんが、それでもHe70の影響を完全に否定してる資料は
今のところ見た事がありません。
(イギリス人らしい、そもそもその点に触れ無いというものは多いが(笑)…)
さらにHe70では主翼表面になめらかな枕頭鋲を採用、その高速性をさらに高めることまでやってます。
この辺りはもともとレーサー機を造っていたミッチェルが強い関心を示しており、
スピットが大量の(全面ではない)枕頭鋲の採用に踏み切ったのはHe70の影響があったはずです。
ちょっと謎なのは主翼のねじり下げで、これがHe70で採用されていたかはよくわかりませぬ。
ギュンター兄弟はHe70以前から楕円翼を研究しており、
おそらくこの致命的な欠点に気がついてたと思われるので、採用してたと思うんですが、
残ってる写真では主翼のすぐ横から撮影した構図が無く、なんともいえません。
ちなみに、He70を戦闘機にしてしまったHe112の写真を見る限り、ねじり下げは入ってますから、
やはりHe70から採用されていた可能性は高い気がしますね。
さあ、ここでちょっと脱線しますよ(笑)。
先にも書いたように、早い段階から楕円翼を実機に取り込んだもう一人の設計者が
日本のアイドル、ホリコシ閣下でした。
彼は最初の7試艦戦で大失敗をしておきながら、
わずか2年後の96式艦戦(の試作型の9試単座戦闘機)では
楕円翼の全てを知り尽くした、という感じの完成度の設計を行っています。
これをホリコシちゃん天才、と見るか、これは何かあったな、
と見るかでその評価はだいぶ変わってきますが、
私は後者の説を取るわけです(笑)。
なぜなら楕円翼の天使、He70のハインケル社からの技術提供があった、
という証言が意外なところから出て来てるんですよ。
オーストラリアのアマチュア歴史家が地元のフレッド デイヴィッド(Fred
David)に
インタビューした記事に、そういった話が出てくるのです。
なんでここでオーストラリア?フレッド デイヴィッドって誰?と思うかもしれませんが、
大丈夫、全ての話は繋がっています。
ただし、この話はまた、いろいろ脱線が必要です(笑)。
1938年初飛行の愛知の99式艦爆がハインケルからの
技術提供で造られたのはよく知られてます。
ただし、この技術提供、単なる資料の提供ではなく、人材の派遣も含まれてました。
この時、ドイツのハインケル社が日本に送り込んだ技術者の一人が
オーストラリア生まれで、ドイツのハインケル社で働いていたフレッド デイヴィッドです。
(彼一人だけだった可能性も高いが確認できず)
これに伴い、海軍がこっそり買ってたHe70の実機も日本に持ち込まれる事になります。
ええ、例によって(笑)“研究資料として”He70は日本に来てるのです。
ホリコシちゃん、そんな機体の存在は知らなかった、とシラを切ってますけど、
96式艦戦の設計時にスーパーマリンの224式(Typr224)の存在を知っていた、
という人間が、当時、欧米で最も注目されていたHe70を知らないとは思えませぬ(笑)。
ただし実機の日本着&試験飛行は9試単座戦闘機の初飛行から10ヵ月後になってしまってます。
ついでに、どうもデイヴィッドの来日もこの段階の可能性が高いです。
ちなみにデイビッドはユダヤ人で、すでにナチスによってその迫害が始まっていたため、
He112の開発に参加していた彼をハインケル社が日本に逃がす形で派遣したんだそうな。
でもって、この技術協力の対象が、99式艦爆からではなく、
実はホリコシちゃんの96式艦戦に対してからだった、と
そのフレッド デイヴィッドは証言してるんですね。
彼は、あれはHe112を日本で造りなおさせた機体だ、
というニュアンスの発言をしてます。
ただし、先に見たように、彼の来日はその初飛行後ですから、
どうも来日前にドイツから技術資料を送った、という事になるようです。
実際、試作型の9試単座戦闘機の主翼構造は逆ガル翼の楕円翼に開放型コクピットと
He70を発展させた戦闘機、He112(の試作型)と構造的にそっくりです。
さらにホリコシ閣下自慢のねじり下げ、枕頭鋲もすべてHe112で使われていた技術です。
この話はちょっと検討してみる価値はあるでしょう。
もっともHs112は途中でいろいろあった結果、実は初飛行は9試単座戦闘機より
半年近く遅れてしまうんですが、設計は1933年初頭と1年以上早い段階に開始されており、
ハインケル社がホリコシ閣下に天啓を与える時間的余裕は十分あります。
そもそもあれだけ一気に技術革新が盛り込まれた96式艦戦(の試作型の9試単座戦闘機)
をホリコシさんチームは設計開始からわずか11ヶ月で試作機まで完成させており、
後の雷電や烈風の迷走を知る身としては、どうも腑に落ちない部分でした。
(ちなみにねじり下げ、枕頭鋲の二つに加えてフラップもこの機体で初採用)
が、最初からこれが正解、という見本があったのなら、堀越さん、無敵ですから(笑)、
ハインケルから、何らかの技術指導を受けていたと考えるのが自然でしょう。
まあ、現状この辺りを裏付ける資料はフレッド デイヴィッドの証言だけなので、
なんとも断言はできませんが…。
ちなみにオーストラリアが第二次大戦中、独自に製造した戦闘機に
ブーメラン(Boomerang)という機体がありました。
(T-6テキサンの主翼構造などを流用してるが…)
実は、この設計主任が、そのフレッド デイヴィッドなのです。
なんで日本に派遣された彼が?というと、
日本でも憲兵隊に目を付けられて(ユダヤ人だから?)身に危険を感じ、
真珠湾攻撃直前に故郷のオーストラリアに帰ってしまい、
その後、その経歴を買われて機体設計に参加したようです。
さらに戦後にオーストラリアの航空技術の開発責任者となった、とされてるのですが、
この点は確認できませんでした。
ちなみに、私がここまでホリコシちゃんを疑うのは、
彼は平気でウソをつくタイプの人間だからです。
例えば、彼の最高のパートナー(笑)、奥宮殿下との共著、
「零戦」の中で96式艦戦で採用されたスプリット式フラップについて、
昭和2年(1927年)に三菱の風洞試験場主任が発明した日本の技術だ、
後にアメリカがこれを盗んで採用、
その結果、既知の技術となって特許の意味がなくなったと、
臆面も無くしゃあしゃあと書いてます。
が、航空機愛好機関では何度も指摘してるように、
これはライト兄弟のオービルと同僚のヤコブスが
1921年にアメリカで発明 1924年にアメリカの特許を取得したものです。
当時、世界中の航空雑誌を読んで、その技術をパク…参考にしていたホリコシちゃんが
これを知らないはずがありません。
というか、本人がアメリカに渡って、現地の航空技術を調べまくってるのです。
ライトの特許を知らなかったとは、とても思えませぬ。
これは96式艦戦で本人がライトの特許の踏み倒しをやってるのを、
遠まわしに弁解してるようにすら見えます。
ついでに、同著書の中でしきりにユンカースに言及してますが、
実際、彼が盗…参考にした技術の多くは、むしろハインケルのものです。
基本的に、信用できないんですよ、この人。
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