■海軍向け シーファイア 戦闘機型一覧
1930年代末にうっかりフェアリーフルマーなどを採用して主力機としてしまったため、
どうもドイツの戦闘機には太刀打ちできないらしいぜ、
ということになってしまったイギリス海軍が、とりあえず
もっとも素早く手に入る高性能機としてスピットファイアに目をつけた。
1940年ごろのことだと思われる。
で、スピットがどういう機体かは海軍も知っていたから、
これは完全に艦隊防衛用の、迎撃戦闘機としての採用で、
その使い道は、のちのF14トムキャットの運用思想に近い。
少なくとも「南雲機動部隊を痛撃してやるぜ」なんて発想は全くない。
自分の艦隊さえ守れればいいのである。
よって、その仮想敵は雷撃機や急降下爆撃機であり、
海軍型のシーファイアは基本的に低空型ばかりとなった。
制空権とってブイブイいわせたる、なんて発想は微塵もないのだ。
で、航空省から、「お古のマークI
が余ったから、ほれ、やるぞ」と言われたのを、
「最新型でなきゃぜったいやだ」と拒否したのが1941年。
断固として当時最新型だったMk.V(5)を要求、結果、
空軍から110機前後のMk.V(5)を(Mk.IIも数機含まれてたらしい)「借りる」ことに成功、
早速、艦上機としての改造を施し、シーファイアの原型を造り、
これによりパイロットの訓練と、実際の運用のテストを行った。
いわゆるフックド スピットファイアという機体で、これが最初の海軍向けのスピットとなる。
ここからシーファイアの歴史は始まった。
ちなみに、アメリカ海軍はF4Uの着艦時の視界不良を理由に
その採用を躊躇したわけだが、そんなこと言ったらスピットは
未来永劫艦載機になんてなれなかった(笑)。
視界は悪い、着艦速度は速い、主脚の間隔はせまく、その脚は「計画的墜落」とすら言われる
着艦時の衝撃に耐えるにはあまりに弱く、ブレーキの効きも悪かった。
それでも「他に手がない」という理由だけで、
FAA(海軍航空隊)は本機を採用してしまう。まあ、誉められた話ではない。
■私がいかにしてプロペラトルクの心配をするのをやめて
2重反転プロペラを愛するようになったか
-ヒロシの異常な愛情-
さて。
2重反転プロペラ搭載機が同じエンジン、同じ機体の
空軍用スピットファイアには存在せず、
海軍向けのグリフォンエンジン搭載シーファイアに集中してる理由は、なぜか。
それは、グリフォンエンジンの回転方向と、それを空母で運用する都合によるのだ。
これが2重反転(コントラ)プロペラ。
手前の3枚と奥の3枚のプロペラがそれぞれ逆方向に回転する。
これによって互いのトルクが相殺されるわけだ。
ただしこの機体は、Mk.XIX(19)の復元機に、
戦後のイギリス製哨戒機、アブロ シャックルトンの2重反転ペラを強引に積んでしまったもの。
グリフォンの強烈なプロペラトルクによって、最大出力時に機体は右方向に曲がってゆく。
で、空母の甲板の右には何がある?というと、
ここには艦橋やら煙突やらが林立しているわけです。
艦載機は、着艦時、失敗したらすぐに再離陸できるように、
スロットルを最大まで上げるので(フックがワイヤに引っかかる反動を確認したらすぐに戻す)
着艦に失敗した機体はまさにフルスロットルで再離陸となり、
プロペラトルクによって、強烈に右に曲がりながら飛んで行くことになります。
どうなるか、というとお偉方の皆さんのいる艦橋の目の前をかすめて
飛んで行きますから、とても心臓に悪い(笑)。
記録は見つけられませんでしたが、実際に艦橋に突っ込んだ機体もあったのでは?
で、3枚づつのプロペラを2重に重ね、それぞれを逆方向に回す
2重反転プロペラなら、互いにトルクを打ち消しあって
まっすぐ飛んでいきますんで、艦橋のみなさんも大安心なわけです。
その点、空軍はどっちに曲がって行こうと痛い目にあうのはパイロット本人と、
基地の近所のお百姓さんだけで、お偉いさんが巻き込まれる可能性はありません。
破壊されてこまるような艦橋もない。
よって、そんなものに予算はつかないのでした(笑)。
形式 |
特徴 |
エンジン |
Seafire Mk.I.B |
|
マーリン |
Seafire Mk.II C |
|
マーリン |
Seafire Mk.III |
|
マーリン |
Seafire Mk.XV(15) |
|
グリフォン |
Seafire Mk.VII(17) |
|
グリフォン |
Seafire Mk.45 |
|
グリフォン |
Seafire Mk.46 |
|
グリフォン |
Seafire Mk.47 |
|
グリフォン |
■覗き屋人生
Ar234の所でも書いたが、偵察機と言うのは、最先端の性能が要求される。
相手の恥ずかしい秘密を盗撮して、全力ダッシュで逃げ帰るわけだから、
へろへろな性能では、逃げる途中で相手の用心棒に捕まって
カメラどころか本人の命まで失うハメになる。
だから、高速で、相手の追撃を振り切って情報を持ち帰る必要があるわけだ。
で、開戦当初は、イギリス空軍、その役割にふさわしい機体を持ってなかった。
長距離偵察にはブレニム爆撃機、近距離にはライサンダーを使ってたものの、
当然、戦闘機に見つかったら生還は期せないし、対空砲火も振り切りにくい。
こう考えると、高速で見つかりにくい小型の単発戦闘機って、
結構偵察機に向いてるでしょ、ということになる。そこでスピットファイアに白羽の矢が立った。
この段階で、もう一人の天才が、スピットファイアの歴史を彩るために現れる。
シドニー・コットン(Sydney
Cotton)。
オーストラリア(当時はイギリスの自治領)生まれで第一次大戦にパイロットとして参加している。
多才な人らしく、一時イギリス空軍が使用していたシドコットスーツ(Sidcot
suit)と呼ばれる
ツナギ風の飛行服は彼の発明だそうな。
で、そんな彼は第一次大戦後、カナダに渡り、航空写真の仕事を始めて大成功、
グランドキャニオンなどの撮影を行っている。
イーストマン コダックのジョージ イーストマンとこのころ知遇を得ていて、
カラーフィルムの開発にも多少からんでいるらしい。
そんな彼は大戦勃発直前の1938年にイギリスに帰国、
あのMI6の依頼でヨーロッパ本土の海岸線の撮影などを行った。
で、この時F24カメラを飛行機に搭載、コクピットからボタン一つで
撮影できるシステムやら、暖気を送って高空でも
カメラのメカ部が凍らないようにする工夫などを開発、
これが後にスピットの偵察型でも活躍することになる。
2台のカメラを飛行機に積んで、高速飛行しながら立体撮影できるシステムも彼が開発している。
写真偵察機は、カメラ積んでブーンとかいいながら空飛んでりゃいい、
ってほどのんきなモノでもないでのだ。
で、この時の「政治的な活動」のおかげで、
彼は政治家レベルにもつながりをつくったようで、これを後々、活用することになる。
でもって、コットンは、その経歴を変われ
戦争勃発後はヘストンで発足した写真開発部隊(P.D.U)の指揮を任される。
1939年の赴任後、彼は当初のブレニム、ライサンダーという
部隊のラインナップにドタマに来て、こんなんで仕事になるか!
スピットファイアよこさんかボケ!とダウディング戦闘機軍団指令にねじ込む。
一民間人のなり上がり、しかもどう考えても主流とは言いがたい
偵察部隊の責任者がそんなことしても門前払いが普通だろうが、
先に書いた「政治力」のフル活用によって、
みごとにスピット2機を手に入れてしまったらしい。
とはいえ、チャーチルのフランスへのスピット派遣要請を
平気でけり倒すあのダウディングがよくもまあ、おとなしく言うこと聞いたもんだ。
…この人、スパイの肩書きも持っていて(ホント)、
後に007の原作者、イアン・フレミングにアドヴァイスとかしてるらしいので、
ダウディングの弱みでも握ってたのか?
なんで、イギリスの写真偵察部隊の発達は彼の「わがまま」に支えられた部分が大きく、
必ずしもイギリス空軍に先見の明があったわけではない(笑)。
それでも、結果からすれば、イギリスは得がたい才能を得ていた、と言えるだろう。
すくなくともコットンのやったことが、時代の先端を行っていたのは間違いない。
そんなこんなで、イギリス空軍、バトル オブ ブリテン前、1機でも戦闘機が欲しい段階で、
最初は2機、それがうまくいくと、40機を一気に偵察型のPRタイプに改造している。
(PRは写真偵察(Photo
Reconnaissance)の頭文字から)
それだけ実際の戦争においては「偵察」の持つ役割は大きかったわけだ。
最後のPR
MK.XIX(19)なんて時速712km、実用限界高度14200mという
化け物偵察機で、ドイツでこれを迎撃できたのはMe262ぐらいか(現実には無理だが)。
「ばっちり撮らせてもらいましたよーん、バイバイキーン〜」
「ムキー!またしても19のヤツに逃げられたザンス!」
みたいな状況であったと思われる。
スピットファイアは、偵察機としても一つの究極形だったのだ。
ある意味、戦闘/偵察機とでも言うべき機体である。
実際、PR型は全部で1000機を超える機体が造られたから、
紫電改や五式戦の倍を超える数のスピットを、惜しげもなく偵察型として投入していたわけだ。
ちなみに、通常の戦闘機型に、カメラも積めるように改造した
FR(Fighter
Reconnaissance/戦闘偵察型)も合わせると、
全部で2000機近い写真偵察が可能なスピットが存在した。
ちょっとすごい話だと思う。
その活躍も華々しいものがある。
開戦後、最初に大陸に侵入したスピットファイアは偵察型だったし、
1941年3月14日、最初のベルリン進入に成功したスピットファイアもPR型だ。
同年5月21日早朝にスコットランドを飛び立ったPRスピットファイアが、
ノルウェーのグリムスタード フィヨルドを撮影した。
そこにはゴーテンハーフェンから出撃してきた
ドイツ最強の戦艦、ビスマルクの姿がはっきりと確認でき、
さらに2日後に再び撮影された写真で、その姿はフィヨルドから消えた。
全イギリス海軍に戦慄が走る。
あのビスマルク追撃戦の火ぶたを切ったのはスピットファイアなのだ。
ほかにも高速低空型がノルマンディー上陸前の偵察に投入され、
かなりの成果を上げている。
ただ、この偵察型、従来ある機体を改造したり、すでにあるのを再改造したりという
機体が多く、その分類整理は、かなりめんどくさい。
中には同じマークナンバーでも改造元になったスピットが全然別なため、
どう見ても同じ機体には見えない、なんてのが結構ある。
で、理由は全く不明だが、PR型にはライトブルーの塗装(このページ一番上の写真)と
ダークブルーの塗装、さらにはなんとピンクの塗装があった。
味方から識別されやすい色をねらったのか…?
戦後、イギリスでこのピンクのPR
Mk.XI(11)を復元、飛行までさせており、
その写真を見ると、イギリス人に対する印象が、根本から変わるぞ(笑)。
で、最初はそんなに大量に造られるとも思ってなかったようで、
単にA型、B型程度の名前をつけていのだが、
数が増え、さらには主翼の武装タイプでA/B型が登場すると、
スピットファイアMk.I
Aと言われても、それがA武装のことなのか、
偵察型のことなのか、判断に困るようになる。
そこで、1941年の秋から改めてPRというマークナンバーが付けられることになる。
でもって、その段階では、偵察型はF(一説にはG)まで出来上がってしまっており、
改めて、最初まで遡って命名し直すことになった。
このため、PR
Mk.I
からVI(6)までは以前に使っていたA型〜F型というもう一つの形式名称を持つ。
さらに、A,B型あたりは、この時すでに引退しており、
もはや現場に存在していない機体への命名となった。
■空軍向け スピットファイア 偵察型一覧
形式 |
特徴 |
そのほか |
Pr MK.I |
|
マーリン |
|
|
マーリン |
Pr MK.III |
|
マーリン |
Pr MK.IV(4) |
|
マーリン |
Pr MK.V(5) |
|
マーリン |
Pr MK.VI(6) |
|
マーリン |
Pr MK.VII(7) |
|
マーリン |
Pr MK.IX(9) |
|
マーリン |
Pr MK.X(10) |
|
マーリン |
Pr MK.XI(11) |
|
マーリン |
Pr MK.XIII(13) |
|
マーリン |
Pr MK.XIX(19) |
|
グリフォン |
■まとめ
スピットファイアの進化は、事実上、マーリンエンジンの進化だった。
これは主力機の座についたMk.I(1)、V(5)、IX(9)の三つが、
エンジン周り以外はほとんど最初のMk.I
のまま、
という動かしがたい事実がある以上、否定出来ない。
シーファイアは事実上ほとんどがMk.V(5)の改造だし、
偵察型もほとんどがこの3タイプからの改造だ。
が、だからといって、マーリンさえあればどんな機体も最新最強戦闘機に!
とか思ってる眼鏡の故Hさん(日本在住)は間違いで、あれはミッチェルによる
スピットファイアの基本設計が、尋常ではないレベルで秀逸だったからこそできた
バージョンアップ手段である。
実際、同じマーリンを積んだフルマー、ハリケーンはなんの進歩もないまま、
最前線から去って行っている。
スピットファイアは、ミッチェル、ロイス、フカーの三人の天才が、
たまたま関わってしまった結果産まれた、奇跡のような機体だったのだろう。
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