■フレデリック・ヘンリー・ロイスについて

1863年、ロンドンの北約130kmにある街、ピ−ターバラ(Peterborough)の西にある
Alwalton(読めません…オルウォルトン?)村で製粉業を営んでいた、
貧しいロイス家の末っ子として、フレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick Henry Royce)は生まれた。
ロールス・ロイスといえば世界的に有名な高級車のブランドだが、
創業者であるロイスは貧困層に近い階層から這い上がってきた男なのだ。

いきなりなんだが、イギリスの自動車メーカーを代表する
ロールス・ロイスの創業者がヘンリー・ロイスで、
アメリカを代表する自動車メーカー、というか元祖自動車メーカーの
フォードの創業者がヘンリー・フォード。
ヘンリーという名は自動車屋さん向けなのか…。

ロイスが産まれて間もなく、一家は製粉業でやっていけなくなり、ロンドンに移り住むことになる。
日本ではちょうど明治に入ったころだ。
その上、無理がたたったのか、1872年に父親は他界してしまい、一家はその大黒柱を失ってしまった。
ヘンリー・ロイスも家計を助けるため、わずか1年の学校教育を受けただけで働きに出ている。
まだ10歳(9歳説もある)の時である。
マルクスらが労働者のおかれた状況に絶望していた余韻が、いまだ残る時代のイギリスだ。
子供が働くには、過酷な時代だったと思う。
同じような境遇の子は少なく無かったとはいえ、苦労人としてのロイスの人生のスタートだった。

1878年、彼が15歳の時、叔母の財政援助によって鉄道会社の研修生となる。
この時入ったのが「すんげえ北の鉄道」と訳せなくも無いGreat Northern Railway だった。
詳しくはわからないが、社員ではなく、無給だが技術を学べるという、徒弟制のようなシステムだったらしい。
この時、彼は技術的な事、様々な工具の使い方などについて、多くを学んだようだ。
さらに、新聞売りで稼いだ金で、夜学にも通っていたというから、その向上心や恐るべし。
夜学では電気工学の知識を身につけたようで、これが彼の前半生における最大の武器となった。
この時期の「電気」はまだ一般の生活に入り込む前の時代、
エジソンが白熱電球を発明したのと同じ時期だから,まさに最先端の技術だった。



ロイスが技術的なことを学んだ旧グレート ノーザン鉄道の
始発ターミナルだった、ロンドンのキングスクロス駅。
「ハリー・ポッター」が列車に乗り込む駅としても有名だ。




ロンドン市内にいくつかあるターミナル駅の中でも、
ここは古くからの構造をほとんどそのまま残してる貴重な駅だ。
ロイスが生きていた時代のイギリスを感じさせてくれる場所である。

しかし、3年後の1881年には叔母の援助資金が続かなくなり、また仕事を探す事になる。
もっとも、学んだ技術を活かしてすぐに給料のいい仕事を見つけ、しばらくは夜学に通うのを続けたらしい。

余談だが、この時期の彼の記録を追うと、イギリスは1日9時間労働になっていたことがわかる。
1880年代に入ると、1日14時間労働といったような、産業革命以来の「搾取」とでもいうべき
劣悪な労働環境はさすがに少なくなって来ていたようだ。
後に、労働環境の改善と、一部の特権階級に独占されていた「富」の社会全体への還元を実行したら
「ついウッカリやりすぎて」イギリス病の元凶をつくる(実際はもう少し事情は複雑だが)
イギリスの労働党の原型がつくられた時期でもある。
多分、労働組合などの活動がスタートしていた時期でもあったろう。
結果的に賃金労働者、すなわち自らの「労働力と時間」を売って、
金銭に替えるほか無い階層の権利の保護が、少しずつ進みはじめていた、と見ていいようだ。
社会主義と、さらにそこからアホみたいにアクセルを踏みまくる共産主義は、
日本では薄ら寒い屁理屈だけの左翼主義、という印象しか無いし、実際、その程度なのだが、
ヨーロッパ社会においては、それなりの「実績」がある。
現在のヨーロッパにおける社会主義の浸透は、ここらへんにルーツがあるのだろう。
ただ、その「実績」を過信した結果、現在の「老いたるヨーロッパ」への道が開かれてしまうのだが。
以上、少し脱線したが参考までに。

さて、ルイスはその後、ロンドンに戻って電気関係の会社に職を得ることができ、
リバプールなどで、当時まだ珍しかった電灯の設置を行っていた。
エジソンによる電球の発明が1879年だから、そらからわずか5年、
まだまだ電気は普及しておらず、実際、当時はガス灯の方がコストが安かった。
もしかしたら、この段階ではまだ白熱灯ではなく、アーク灯だったかもしれない。
このため、電気照明の普及はなかなか進まず、1884年の5月には、
会社が倒産してしまう不運に見舞われる。
しかし、元々タフなロイスは、これをいい機会と判断、それまでの貯金をはたいて、
友人のアーネスト・アレクサンダー・クレアモント(Ernest Alexander Claremont)
と組んで、電気製品の会社をマンチェスタで始める決心をする。

社名はF.H. Royce & Company 、日本語にすると「F.H.ロイスと愉快な仲間たち」と訳せなくも無い(笑)。
イギリスの場合、代表者名と「会社」を&つないだ社名、というのが結構あるので、
この場合は、F.H.ロイス商会、とでも訳しておくのが無難だろう。
共同出資者のクレアモントの名がどこにもないのが興味深い…。
出資率で行ったら、7:3という大差でクレアモントの方が金を出しているのに、だ。

クレアモント、この時代に大学も出ており、それなりに裕福な階層の出身だったようで
電気関係の仕事をしてるうちに、ロイスと出会ったらしい。
彼はその後、常にロイスのパートナーとして行動を供にすることになる。
二人は年齢が一緒で、性格は正反対だったらしいが、妙に息があったようだ。
1894年、二人同時に結婚したが、その奥さんは姉妹で、つまり彼らは義理の兄弟でもある。
ただ、ロイスは後に別居、奥さんはその死にも立ち会ってない。
離婚していた、という話もあるが、未確認。

この後、電気式玄関ベルなどがヒットし、モーター、発電機ときて、後には電動クレーンが看板商品に成長する。
会社は順調に成長し、後にロールス-ロイスを設立する経緯はすでに書いた。
この電気製品会社も途中で資本金を追加し、株式会社化している。
参考までに、最初に会社を設立した時の資本金が70ポンド、
15年後に株式会社として再登記した時の資本金が3万ポンド。実に428倍である。
当時の物価上昇率の資料を持たないので、うかつに評価できないが、
すくなくとも、かなり成功していたことはうかがえるだろう。
この後にはロールス-ロイスを設立して、自動車事業でも大当たりを出すわけだから、
ロイスは単なる技術者にとどまらない、立志伝中の事業家、という見方もできるのだ。

ロイス本人に話を戻そう。
仕事に熱中するとロクに食事もとらず、不規則な生活を続けていたため、
彼は早くから病気がちだったようだ。
子供の頃から無理を重ねていた事も影響があったろう。
1902年に一度、過労で倒れたが、この時は無事に回復、仕事にも復帰して、
最初の自動車の開発をおこなったことはすでに述べた。

だが、1911年の休暇中に、再度ロイスは病に倒れる。
この時は大腸ガンだったと言われ、大手術を受けている。
スピットファイアの誕生に、中心的な役割を果たした二人の男、
ミッチェルとロイスは、ともにガンで倒れ、大手術を受けた経験を持つのだ。

この時、彼は48歳。肉体的なピークはとっくに過ぎていた。
その上、医者にはもって数ヶ月の命、と宣告される。

だが、ロイスは尋常ではない、というレベルでタフだった。
彼の本当の歴史的な役割は、この手術後に待っていた。
それを知っていたかのように、ロイスは生きて生きて、生き続け、
この後、実に22年間にわたって苦痛に満ちた闘病生活を続けながら
その中で、傑作航空エンジンのいくつかを産み出してゆく。
実際の設計は、すでに彼本人の手を離れていたようだが、
ケストレルからマーリンの設計段階まで、
そのプロジェクトの監督と、方向性の提示は彼が行っていたようだ。

ミッチェルは自分に残された時間の中で闘い、
ロイスは自らの時間を、可能な限り引きのばすという形で闘った。
そしてロイスは、自分に出来る事の最後、ぎりぎりのラインまで踏みとどまり、
その仕事のメドが立ったのと同時に、この世界から去って行くことになる。
ロイスが航空機エンジンに残した功績に比べれば、
高級車メーカーの立ち上げなど、前座にすぎない。

とりあえず手術後は、ロイスは医者のすすめに従い、冬は温暖なフランスで、
夏は涼しいイギリスの郊外の街で暮らせるようにし、基本的にはそこで療養生活を送った。
簡単な図面の作成や、会社からの相談には乗っていたようだが、この時期、事実上、半引退状態だったと思われる。
年齢的にも50歳に近く、このまま引退しても不思議はなかった。
だが、ロイスは、その不屈の精神力と、尋常じゃないタフさで、エンジン設計の現場へと戻って来た。

ちなみに、ロールズがまだ生きていた頃に、彼が航空機の開発に興味を示したことがあった。
この時は堅実主義のクレアモントが社長の立場から反対し、結局話が流れたようだ。
1908年頃と思われるから、さすがにまだライト兄弟の初飛行からわずか5年弱、
技術的にも商業的にも全く見通しが立ってない時期で、
これはクレアモントの判断の方が正しいと思うべきだろう。
ただ、その後、ロールズの紹介でロイスは陸軍の飛行艇用エンジンに関して、
相談役のようなことをやっていたらしい。
いずれにせよ、ロールズが事故死、その後、会社も自動車事業だけで手一杯となってしまった。
その結果、1914年に第一次世界大戦が勃発するまで、
航空機エンジンなんて、ロールス-ロイスの眼中にはなかったようだ。

ワシントンDC、スミソニアンの航空宇宙館にあるライトフライヤー。
この警備員がどうしてもどいてくれず、こんな写真に…。
えらくキレイだけど、オリジナルのはず。
この機体の歴史は複雑怪奇で、ロンドンにあったものをスミソニアンが各方面に
侘びを入れることでようやく取り返した。
そもそもはスミソニアン協会とライト兄弟の確執が原因なのだが、
ここら辺は今回の内容とは無関係なので省く。長くなるし。

これの初飛行が1903年12月。ロイスが最初の自動車の製作を行ってたころだ。
自動車会社としてのロールス-ロイスの歴史は、ほぼ航空機の発展に重なることになる。



ただ、ロイスがいつ、エンジン設計の現場に復帰したのかどうにもはっきりしない。
少なくとも、第一次大戦時の航空エンジン開発に関わっていたのは間違いない。
1914年後半に、軍から最初のエンジン制作の依頼が来てるから、
この段階では、療養生活を一端切り上げ、会社にもどっていた可能性が高いだろう。
最初の航空エンジン、イーグルを「ロイス設計によるエンジン」とする資料もある。
その後も療養を続けながら航空エンジン開発に関わって行く。

1920年代、例のカーチスエンジンを参考に、ケストレルの開発を指揮したのも彼だ。
その後、シュナイダー・トロフィーに参戦することになるのだが、最初、1929年の時は、
わずか6ヶ月の突貫工事でバサードエンジン改良によるRエンジン開発を指揮、1900馬力を絞り出した。
この時、過労がたたって一時ロイスは倒れてしまうのだが、
それでも全体の監督と、図面のチェックは続けていたらしい。
ちなみにロイスが “サー” の称号を授与されたのは、その自動車関連への貢献ではなく、
この時開発したエンジンがシュナイダーカップに勝ったことによって、だった。
ただ、この時はまだ2連勝目だったし、なぜこのタイミングでの授与だったのか、ちょっと謎だ。
ついでに、機体を開発していたミッチェルは、シュナイダートロフィー3連覇をしながら、
なんら称号を受けていなかったりする。変な国である。

で、ロイスは、この後一時期、また療養生活と仕事への復帰を繰り返したらしい。
しかし、1931年のシュナイダー トロフィーに使ったエンジンは、
前にも書いたような事情で、再び短期開発を余儀なくされたため、
ロイスは現場に完全復帰して総指揮をとる。
その結果、2300馬力を搾り出したRエンジンでイギリスに3連勝をもたらす。
(ライバルが全部自滅してしまってはいたのだが…)

この後、前にも書いたように、ケストレル系エンジンの限界を感じたロイスは、マーリンの開発をスタートさせた。
1933年に入って設計はほぼ終了、10月には航空省(Air Ministry)から正式な認可を受け、
ようやく、国の予算的バックアップを受けれるようになり、初号エンジンの制作に取りかかる。

その直前、1933年4月にロイスは既に他界していた。
享年70歳。
大往生、と言っていい年齢だが、その後半生はガンの大手術を乗り越え、長年に渡る闘病生活に苦しんだ。
それでもめげなかった彼は、結局、ロールス-ロイス製航空用ピストンエンジンの集大成となる
マーリンの開発にメドが立つのを見届けてから永眠することになる。
その役割を最後まで見届けることができた、と考えていいと思う。


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