■中島 J1-N1(S) 月光 11型
J1-N1 Nakajima Gekko
Type11
(Irving)
海軍が太平洋戦争開戦前から開発を進めていた双発機。
当初はヨーロッパで流行ってた長距離双発戦闘機として開発され、
1941年6月に初飛行しました。
ゼロ戦と同じ1000馬力級の栄エンジン×2搭載の機体です。
が、初飛行してみたら運動性能、最高速ともに貧弱で、
戦闘機としてはとても使えない事が判明、
急遽偵察機に変更されるのですが、
別段高速でもない機体では被害続出でこれもダメ、
最終的に有名な“斜め銃”を搭載して夜間戦闘機となります。
そんな感じで開発、運用が迷走を極めた結果、
日本機ではおなじみの総生産数500機以下クラブの一員であり(笑)、
これまた事実上、戦力にはなってません。
生産も終戦よりはるか前の1944年10月で打ち切られてますし、
あまり評価はされてなかったように見えます。
とにかく相手は1万機クラブの会員が掃いて捨てて叩き潰しても
いくらでもいるアメリカですから、この数ではどうしようもありませぬ。
よって月光、日本機でも有名な機体の一つですが、
迷走の果てに夜間戦闘機となったもので、
なんら明確な設計思想があったわけではなく、
その戦果も事実上、無かったようなものとなってます。
もっとも夜間戦闘機の事情は他の国々、ドイツなども一緒でした。
たまたま下の写真で後ろに写ってる
アメリカのP-61ブラックウィドゥが登場するまで、
どの国でも似たような状態ではあったのです。
ただし、それでもドイツは結果を出してますが…。
日本の不幸はレーダー技術が貧弱だった事で、
この結果、どんな夜間戦闘機も、
あまり存在意義が無い、という事になってゆきます。
この点はあとで少し詳しく見ましょう。
この機体の開発が始まった1930年代末において、
空母での双発戦闘機の運用実績なんてどの国にも無く、
日本海軍も最初からこの機体は
陸上戦闘機として中島に発注してます。
となると何で海軍が陸上戦闘機を、
しかも何の実績も、データ的な裏づけも無い双発戦闘機を
開発しなきゃならんのか、という疑問が出てきます。
一応、日中戦争中に長距離爆撃が行なわれた結果、
護衛の長距離戦闘機が要るよね、という事だったらしいですが、
別に長距離護衛戦闘機だったらゼロ戦でいいでしょう。
実際、この機体の開発中に中国戦線ではゼロ戦による
爆撃部隊護衛任務が、既に行なわれていましたし。
まあ、それを言ったら、そもそもなんで海軍が
長距離戦略爆撃をやるんだ、
という疑問から考えないといけないのですが…。
ええ、海軍が戦略爆撃をやってるんですよ、日本軍(笑)。
もっとも、アメリカ海軍も大戦末期になると、
太平洋全域の航空優勢を完全に掌握が完了して、
やる事がなくなってしまい、
陸軍の戦略爆撃に付き合って工場を爆撃したりしてます。
が、それはあくまで艦載機によるもので、
陸上基地から双発爆撃機などを飛ばしてるわけではありません。
1942年のドゥーリトルの東京爆撃だって、
空母から飛んでいったのは陸軍のB-25でしたし。
海軍が主導権を握って地上基地から戦略爆撃までやった国は
人類60万年の歴史で日本海軍くらいのものでしょう。
それで戦争に勝ってれば問題はないのですが(笑)、
中国戦線では戦争に決着をつける事に失敗、
アメリカ相手には惨敗ですから、もっと他にやることあったろう、
という指摘はあながち的外れではないと思われます。
まあ、陸軍が主役の中国戦線で、少しは存在感を示すために
戦略爆撃に首を突っ込んだんでしょうが…
本来、海軍の長距離爆撃機は、強力な戦艦が不足する
日本海軍の艦隊砲撃力を補うため、
陸上からはるばる決戦海上まで出かけていって、
敵艦隊に爆弾を落とすのが仕事だったはずでした。
(800kg〜1tクラスの爆弾なら戦艦砲弾とほぼ同じ大きさ)
が、この本来の運用を果たしたのは開戦直後の1941年12月10日に
イギリスの戦艦 HMSプリンス・オブ・ウェールズと
戦闘巡洋艦 HMSレパルスを沈めた時くらいでしょう。
しかもそのすぐ後、1942年2月20日に
ラバウルにちょっかい出しにきた空母USSレキシントン相手に
一式陸攻が護衛無しで飛んで行ったら
あっさり艦載戦闘機に壊滅させられ(17機中15機損失)
そうか相手に空母があったらこの手使えんわ、
と日本海軍は思い知る事になります。
よって艦隊決戦の時に陸上から爆撃機が飛んでいって援護する、
というのはどうも机上の空論だぜ、と判明するわけです。
要するに海軍の陸上機は、開発、
運用ともに理解に苦しむ部分が多く、
幸か不幸か、この機体も全く持ってそんな機体となっています(笑)。
双発戦闘機ですからエンジンは2発、さらに当初は3人乗りだっため、
全幅で17m、全長で12mという大きさがあります。
その乾燥重量4.8t(アメリカ軍測定データ)は
より重くなった後期型のゼロ戦52型の乾燥重量1.88t(同上)と比べてすら
約2.6倍ですから、エンジン出力が2倍になったところで追いつきません。
完全な出力不足で、その性能は飛ばす前から判断できたはずです。
実際、初飛行後のテストで戦闘機としては実用に耐えない、
と判断されているのですが、海軍はこの機体の開発計画を放棄しませんでした。
証拠は無いですが、状況からして金かメンツ、どちらかが原因でしょう。
その後、これもヨーロッパで流行りかけた(笑)
回転銃座を後部に搭載した戦闘機にしようとするも、
技術的な問題で挫折します。
それでもあきらめなかった海軍は、
最終的に長距離戦闘機としての航続距離に目をつけ、
長距離偵察機として採用される事になります。
それが2式陸上偵察機、2式陸偵です。
なんで海軍が陸上運用の長距離偵察機を(笑)……
しかし、この機体は最高速が
高度6000mで535q(アメリカ軍測定データ)にすぎず、
開戦時のアメリカ軍のほとんどの戦闘機より劣っていました。
敵の航空優勢地域に突入して撮影を行なう長距離偵察機は、
敵戦闘機の追撃を受ける可能性が高く、そうなると速度で劣っている以上、
逃げ切る事は極めて困難となります。
実際、戦地で試験運用された2式陸偵の多くは生還できてません。
それでも海軍は正式採用、1942年6月ごろから
月産10機未満と言う、意味があるのか、といった感じの量産を開始します。
ここまで執着すると言う事は金よりメンツの問題かもしれませんね。
で、それらの機体を集め、
当時の花形部隊(坂井、西沢らエースパイロットが多数在籍)、
台南空に唯一の偵察飛行隊が作られたようです。
が、この機体で飛んで行っても自殺行為でしかないよな、
という事でほとんど偵察任務は行なわず、
基本的にはラバウル基地周辺の哨戒任務などに
ついていたと見られます。
で、この余剰機に目をつけたのが、台南空の小園中佐でした。
ラバウル基地が夜間爆撃に悩まされていたため、
その対抗策として、上下斜めに埋め込んだ機関砲を胴体に搭載、
爆撃機に近づいて併走して飛びながら攻撃できる機体を考えます。
それまでの戦訓で、B-17は20mm機関砲でも簡単には落ちない、
と判っていたため、とにかく敵に密着し、
長時間の射撃が続けられる機体が要求されたわけです。
このため現場でも運用に困っていて、
しかも機関砲搭載の十分な空間があった、
2式陸偵の改造が計画されます。
その後いろいろあって、計画は一時中断されるのですが、
とりあえず後に台南空が251航空隊に改変され、
小園中佐がその指令となると、
その夜間戦闘機の開発に本腰を入れ始めました。
最終的に1943年の5月にその試作改造型2機がラバウルに到着、
間もなく2機のB-17の撃墜に成功したとされます。
これを受けて1943年8月、この斜め銃搭載の2式陸偵が
夜間戦闘機として正式採用される事になり、
J1N1-S 月光の誕生となるわけです。
…ややこしいでしょ(笑)
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