■イギリスの事情

さて、今回からはムスタングの開発史を少し詳しく追いかけて行きたいと思ってます。
思ってますが、思った通りにゆくかどうかは
本人にもよくわからんのは、まあ、いつもの事ですね(笑)。

ヨーロッパでナチスドイツとの戦いに巻き込まれたイギリスが、
まだ大戦に参戦してなかったアメリカから戦闘機を買おうとしたのが
ムスタングの誕生のきっかけだった、というのは既に何度か書いてます。

が、そもそもイギリスは当初、アメリカの戦闘機なんざ眼中にありませんでした。
だってボクらには無敵のスピットファイアとハリケーンがあるんだもの、
と思ってたからですが、肝心のスピットが当初はかなり生産性が悪く、その配備は遅れてました。

第二次大戦がはじまった1939年9月の段階までに前線部隊に配備されてたのは
300機前後と見られ、イギリス本土防衛に使うのが精一杯でした。
(生産数はもう少し多いが初期運用時の事故や故障で既に30機近くを損失済み)
ハリケーンはなんとか揃いつつありましたが、これもヨーロッパ本土に送り込んでしまうと、
もはや予備戦力は複葉戦闘機のグラディエーター位になってしまいます。
すなわち広大な植民地、エジプトやインド、太平洋で使う機体がありません。

そして戦争が始まってみると、歩兵と共闘する航空機、
対地攻撃用の機体が無い事にも気が付きました。
のちにこれはハリケーンの仕事になりますが、
開戦当初はハリケーンも立派な戦闘機の扱いであり(笑)
この手の任務には投入できませんでした。

さらにピンチだったのがフランスで、本来なら主力になるはずだった
ドボアチン(Dewoitine)D.520は、1939年秋の開戦時までに全然生産が追いついてませんでした。
なんとか数が揃いつつあったM.S.406は空飛ぶ悪い冗談、としかいいようがない機体で、
スピットより後の世代の機体なのに、最高速は480q/h前後しか出ないのです。
それ以外の航空機も明らかに数が足りておらず、
再軍備を始めてチェコとオーストリアを併合、さらに西に目を向けつつあった
ナチスドイツに対抗するため、アメリカからの航空機購入を決断したのでした。

よって、ここにイギリスを誘い込んで、その購入のための共同組織を立ち上げます。
これが英仏購入評議会(Anglo-French Purchasing Board)で、
アメリカのニューヨークに活動拠点を置き、その兵器購入を推進する事になるのでした。
ちなみに、ここまではまだ、第二次大戦開戦前の話です。

後にノースアメリカンにP-51を発注する決断をしたのが、
この委員会の代表である、イギリスの“サー”ヘンリー・セルフ(Henry Self)でした。
(フランスにも独自の代表が居た可能性があるが、はっきりしない)
とりあえず、この委員会が最初に購入を決定したのは
ロッキードの高速旅客機で、軍用の輸送機としても使えると思われた
L-14 スーパー エレクトラでした。



スーパーエレクトラの写真が無いので、とりあえず先代のL-10 エレクトラで誤魔かします…。
ロッキード社が開発した高速旅客機で、
これをやや大型化したのがL-14 スーパー エレクトラでした。
DC-3ほどの知名度はありませんが、L-14も戦前の傑作旅客機の一つで、
アメリカだけでなく、日本を含む世界各国で運用されました。
先代のLC-10も同様で、この機体もロンドンの科学博物館のものです。

後にこの購入評議会にベルギー、ノルウェーも参加してたようですが、
イギリス以外は、やがて全てドイツの軍門に下る事になるので、
その後は英国購入委員会(British Purchasing Commission)と呼ばれるようになります。

ただし後にドイツとの開戦を迎えてしまい、
アメリカの中立法(アメリカはあらゆる戦争に関与しない)によって
各国が交戦国指定を受けた結果、
本来ならアメリカ製兵器の購入は出来なくなってしまいます。
そこで1939年9月、ル―ズベルト大統領が現金商売政策(Cash and carry)
の対象拡大を議会に求め、そこに抜け道が造られる事になるのです。
これによって兵器購入は続き、アメリカの兵器産業に予想外の好景気をもたらします。
この点は、また後で。

ちなみにこの評議会を通じてベルギーや、フランス、ノルウェーが降伏前に
アメリカに発注していた兵器は、ほぼ全て、後にイギリスが引き受ける形になりました。
(代金の一部を先払いでフランスやベルギーが払ってた可能性はあるが、
それでもイギリスが一部を支払ってはいたらしい)

ちなみに、イギリスは1939年9月の開戦後、航空機だけの購入に特化した
英国直接購入委員会(British Direct Purchase Commission)なる
よくわからん名前の委員会を1940年1月に立ち上げてるんですが、
この活動内容はイマイチよくわかりませぬ。
どうもこちら主には英連邦( British Commonwealth )、いわば植民地軍用の
機体購入のための組織だった、という話もあるんですが、確認はとれず。




第二次世界大戦開戦時、自国の戦闘機の性能に関しては自信満々だったイギリス空軍。
まあスピットファイアはわかるとしても、ハリケーンはどうよ、
これって鋼管羽布張りよ、と思ってしまうところ。
コクピットから前、主翼を含む部分はさすがに全金属製なんですが(初期は主翼も鋼管羽布張り)、
胴体後半は、ジュラルミンでは無く、重い鋼のパイプで骨組みを組んで、
その上から防水塗料を塗った布を貼ってあるだけ、という時代遅れの機体でした。


■Photo US Air force / US Airforce museum

が、1939年当時のアメリカ陸軍の機体は、P-40すらまだ配備前であり、
多くの部隊が、このカーチスP-36ホーク、後はリパブリックのP-35なんかを使ってました。
どちらの戦闘機も時速500qすら出ませんでしたから、
そりゃハリケーンでもイギリス空軍は強気になるよな、という世界でした。
(カーチス社は出たと言ってるが(笑)アメリカ陸軍のテストでは470q前後どまりだった)

ちなみに海軍もまだF4Fが配備前、
ようやくF2Aバッファローが配備された始めてた時期ですから、
まあ確かに見るべき機体はアメリカにはまだ無いんですよ。
(P-40もF4Fも初飛行は終えてたが)

さらにP-36に関しては、どうもアメリカ陸軍でも評判はあまりよろしくなく、
すでに1941年初頭の段階でこりゃダメだ、
という事で僻地のハワイやアラスカ送りになってました。
(この結果、後輩のP-40とセットで真珠湾攻撃を受けて立つことになる)

が、そんな機体すら導入せざるを得ないほど、
フランスは切羽詰まっており、P-75Aの名前でそのP-36の購入を決定します。
これがドイツが攻め込んできた西方電撃戦の直前の40年3月から実戦配備となっていたため、
その進撃に対して正面からぶつかる事になりました。

フランス人に言わせると、かなり頑張ったよ、との事なんですが、
ここら辺り、信頼できる資料を私は知らないので、なんとも言えませぬ。



フランスの幻の主力戦闘機ドボアチンD.520。
第二次大戦には事実上、ほぼ間に合わなかったのですが、戦後、
1953年ごろまでフランス空軍では練習機として使ってました。
フランス人に言わせると、当時の最高の戦闘機の一つで、この本格参戦が間に合わなかったのは
ドイツ野郎にとって幸運だったぜ、との事ですが、どうかなあ(笑)…。

この機首の空気取り入れ口や胴体下のラジエターの設計を見る限り、
現実はむしろ逆じゃないかあ、と思うんですが。
この機体が相手にしないとならなかったのは、既にMe-109のE 型以降ですからね。

参考までに1940年5月のフランス&低地諸国におけるフランスの戦い、
いわゆる西方電撃戦の開始時に220機前後は完成してたんですが、
多くが改修工事のため工場に送り返されており(涙)、
ドイツがワーッと低地諸国とアルデンヌに殴り込んできた時、
その稼働機はせいぜい30機前後だったと言われてます。
何やってんだ、という感じですが、この辺りの事情はよくわかりませぬ、

その後、あわてて引っ張り出されて多くの機体が戦闘に投入されたほか、
降伏までに合わせて430機前後が生産され、
内350機前後が部隊配備に回っていた、とされます。
この時期の空中戦だとギリギリ、存在感を主張できる数ですが、
当然、パイロットは機体に慣れる時間なんて無いわけで、
ほとんど戦力にはなってなかったでしょう。
ちなみにD.520はドイツの尻馬に乗って後半戦に乱入して来た
イタリア空軍との戦闘に主に投入されたようです。

ついでにこの時期の戦果と損害はフランス人が結構熱心に研究してますが、
フランス空軍の公式記録がある、という話をまだ見たことが無いので、
この辺り、どこまで信用できるのか何とも言えません。
ドイツ側の資料も、私は未見です。



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