■GO WEST

さて1930年2月、フォッカー航空機アメリカで、念願の航空機の仕事を始めたシュムードは、
本国(ドイツだと思う)に置いてきた奥さんのルイーザと息子のロルフを呼び寄せ、
ニュージャージー州での生活を始める事になります。
この後、ゼネラル アヴィエーション社に会社が生まれ変わった後に、
メリーランド州ボルチモアへの会社の移動があったものの、
相変わらず、東海岸、すなわちヨーロッパの対岸で暮らしてました。

余談ですが、なぜか戦時中、イギリスではシュムードは元メッサーシュミット社の設計技師と
信じられており、戦後に出た資料などでも、そんな記述があったりします。
当然、これは完全な誤認で彼は30歳を過ぎてアメリカに渡るまで、
航空機設計の仕事をしたことはありません。
(一時個人製作で航空機を造ろうとしてたが完成せず)

やがて1935年の夏ごろ、ノースアメリカン社の再設立後にキンデルバーガーが
会社をカリフォルニアへ大陸横断引っ越しさせる事を決定します。
もし会社に残るなら、シュムードも西海岸へ引っ越さねばなりませんが、
ドイツから来た彼の奥さんは、これに反対でした。
東海岸からならドイツへの里帰りもなんとかなりますが、
太平洋岸のカリフォルニアではドイツに帰れないかも、と考えたようです。

このためシュムードは、1935年9月、
会社の引っ越しが始まった月にノースアメリカン社を一度退社し、
民間の小型機を開発してたベランカ社に職を求める事になります。
ちなみにこのノースアメリカン社を離れてる間、1935年10月に、
ようやくアメリカの市民権を取得できたようです。
(この辺りややこしいのだが、永住権、国籍、市民権は微妙に違う。
最終的に選挙権まで持つ完全なアメリカ人になるには市民権(Citizenship)が要る)

さらにちなみにシュムードがデザインした例のNAAの文字と人の良さそうなワシの会社のロゴは、
この会社の引っ越し前、1935年の春に採用されたものでした。



1922年ごろの単葉高速機、かつおそらく世界初の密閉型客室をもった機体、ベランカC.F.。
この機体を設計したイタリア系移民のベランカが設立したのがベランカ社です。
ちなみにリンドバーグは当初、この会社の機体でパリまでの横断飛行を考えてたのですが、
会社側の要求が多く、うんざりした結果、カリフォルニアのライアン社に
スピリット オブ セントルイスの製造を依頼するのです。

なので、1920年代は結構時代の先端の会社だったのですが、
1930年代には民間用の安価な小型機を造る会社に過ぎず、
技術的には見るべきものがない航空機メーカーでした。
このためシュムードは就職してからも気が晴れず、かなり落ち込んでいたようです。

このままだとムスタングは永遠に生まれないで終わるのですが、
これを見た彼の奥さんが折れ、間もなくノースアメリカン社への復帰と
カリフォルニアへの移住が決まります。
この結果、荷物をまとめて車で東海岸から国道60号を西に向かうという、
1930年代のアメリカの社会現象、「怒りの葡萄」を地で行く引っ越しとなるわけです。
(小説の方は中部オクラホマ州からカリフォルニアへの移動なので国道66号だが)

ところが、これが思いもよらぬ悲劇となりました。
1935年11月12日、カリフォルニア州に到着した直後に彼らの車は
衝突事故を起こしてしまい、シュムードは重症、奥さんのルイーザは事故死してしまいます。
この結果、軽傷で済んだ息子を一時的に知人に預け、
シュムードは長期入院を余儀なくされてしまうのです。

ちなみに彼は1944年に10歳近く年下の奥さんと再婚するのですが、
これまた後に病死してしまい、その後、3度目の結婚までしてます。
(3度目の奥さんは彼の死後も存命だった)

よってせっかくカリフォルニアまでやって来ながら、
彼が本格的にノースアメリカン社で仕事を再開するのは翌1936年2月からとなりました。
復帰後にはNA-21、後のXB-21爆撃機の銃座の設計から仕事を再開したようです。



というわけで、シュムードがカリフォルニア移住後、最初にかかった仕事が、
このXB-21の銃座周りの設計でした。
妙に中途半端な仕事なのは、本人は大怪我、奥さんも失うという状況の中で、
リハビリを兼ねてたから?という気もします。
ただし後にB-25でも彼は爆弾投下装置回りという妙な部分の設計を担当してますから、
こういった細かい部分の設計も得意としてた可能性はあります。

こうしてノースアメリカン社とエドガーは、カリフォルニアで徐々にその活動を開始します。
が、この連載はあくまでP-51ムスタングに関して、なので、
次回からは、再びそちらに目を向けて行きましょう。


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