■D型の弱点と強み

でもって、ムスタングのマーリンエンジンは、B型の途中でV1650-3から、
低空域の馬力を上げ、より実用的にしたV1650-7に変更されており、
D型では最初から最後までこのエンジンだったはずです。

おなじくB型の途中から(P-51B-10番台?から)胴体内に85ガロン(約321リットル)の燃料タンクが
追加装備されており、これもD型にそのまま引き継がれました。
ただし、そんなものが積めるなら最初から積んでたわけで、
これは爆撃機護衛任務に使われる事が決定した後の、
かなり強引な改造であり、機体の前後バランスを完全に狂わしてしまうものでした。
ムスタングの最大の弱点、ともいえるのがこれなのです。

P-51Dのパイロットマニュアル(Pilot's flight operating instructions)の図でこれを見てみましょう。
赤い部分が、その85ガロン追加タンクです。
コクピットの後ろ、従来の主翼内燃料タンクからかなり離れた位置にあるのが判ります。



機体の前後バランスの重心点、ヤジロベエの支点にあたる場所は、
機体を上へと釣り上げる主翼の揚力中心点にほぼ一致します。
なので主翼周辺に重量物があれば、機体の前後バランスを崩さずにすみ
燃料が減って軽くなっても、飛行中、突然機首が上がり下がりする事はありません。
このため、機銃や銃弾といった重量物、そして燃料タンクなどはこの辺りに置くわけです。
実際、P-51の翼内燃料タンクなどはまさにその位置にあります。

ところが、この追加タンクは主翼上どころかその後ろにあり、
重心点からかなり離れた位置に置かれてるのが見て取れます。
この位置に満タンだと230s近くになるタンクを置けば、機体の重心点を支点として
テコの原理(力のモーメント)で尾部を押し下げる(機首を押し上げる)
強烈な力が機体にかかるのは、自明の事でした。
当然、機首下げは逆に重くなります。とにかく極めて操縦がやりにくいのです。

さらに厄介なのは、尾部を下げるとこの重量増によって生じる慣性の強化によって、
より強く尾部を下げる、つまり過剰な反応が出て一気に下がってしまう事で、
これは事故に繋がりやすい、極めて危険な特徴なりました。
タンク内の残量が30ガロン以下にならないと、まともな操縦はできなかったとされます。

が、すでにこの頃にはイギリス製の108ガロン×2の大型増槽、落下式燃料タンクが
実用に入っており、85ガロン程度なら、無くてもなんとかなってしまったはずでした。
よって、どうも実際には、ほとんど使われて無かったように思われます。
一節では、現場では60ガロン以上の搭載を禁じて運用していた、という話もあり。

ちなみにシュムードは
“確かに快適とは言い難い飛行条件だったが、この件で文句を言われたことは無い”
といった趣旨の事を戦後に書いてますが、それは単に実際は使われなかったからでは…
という気が個人的にはしております。

とりあえず、ムスタングの装備の中では珍しい大失敗例でしょうね。
ただし、念のため確認して置くと、本来の任務じゃなかった爆撃機の護衛任務に
投入される事が決まった後に強引に追加された装備なので、
必ずしもシュムードたちの落ち度ではない、という面が強いです。



でもってこれがイギリス製の大型増加燃料タンク、108ガロン(416.4リットル)タンク。
もはや翼内タンクの92ガロン(×2)よりデカいのです。
ちなみに大きいだけではなく、実は木製の枠とそれを包む紙でできてる、
というエコな(笑)タンクでもありました。

なんぼ物資が豊富な連合軍と言えど、出撃のたびに捨てられる
(積んだままでは空気抵抗が大きすぎるので空戦するのも以後の航続距離を稼ぐのも無理)
増加燃料タンクに貴重なジュラルミンやアルミを使うのは厳しく、
それ以外の鉄などでは重くて実用になりませんでした。

そこでイギリスが開発したのがこの木と紙の燃料タンクだったわけです。
軽いし、安いし、ドイツ領内に捨てても回収の上に再利用されてしまう恐れも無い、
という極めて優れた逸品となっております。
ただし、燃料を入れたら間もなく軟化が始まり、おそらく1時間もたなかったようです。
さらに強度の問題で着陸の衝撃には耐えられず、このため、天候の悪化等で
途中で引き返す事になっても、満タンに近い状態のまま捨てるしかありませんでした。

ちなみに、この軽さは整備員にも歓迎されたそうな。
ついでにスーパーマンのように、このタンクを片手で軽々と持ち上げてる
整備員とパイロットの写真が山ほど残されてます(笑)。
皆考える事は同じだ…

といった辺りが、P-51の欠点、と言える部分ですが、
逆い言えば、最後まで改善されなかった欠点はこれだけなのです。
(重くて加速と上昇率が悪い、という点も残ったが致命的なレベルでは無い)

そして兵器としてのムスタングを考えた場合、その製造コストの安さ、も強烈な武器でした。
1945年1月にはテキサスとカリフォルニアの両工場の合計で、
月産857機を記録(日産27機、つまり1時間に1機以上完成するペース…)、
その量産効果で製造コストも劇的に下がっていたのです。

アメリカの歴史研究家、ホリー(I.B.Holley)の1964年の著作、
Buying Aircraft: Materiel Procurement for Army Air Forces (United States Army in World War II)
によると、1945年前半、終戦直前のアメリカの戦闘機の価格(Unit cost)は以下の通りでした。

 機種  価格
 P-51  $50.985
 P-47  $83,000
 P-38  $97,147


高価なエンジンと排気タービンを二つ積んでるP-38がベラボーに高いのは仕方ないとしても、
排気タービン搭載ながら、エンジン回りの構造は単純な空冷のP-47と比べてすら
ムスタングはずっと安いのでした。

当然、これは例のロールスロイス社へのマーリンエンジンのライセンス料、6000ドルを含んでの価格ですから、
実際のコストパフォーマンスはより高く、実質、P-47の半額と思っていいでしょう。
数を揃えるうえで、これほど重要なポイントはありませんから、
アメリカ陸軍は、以後、ムスタングを主力戦闘機として、戦争末期を戦い抜くことになります。
この点からも、あらゆる意味でP-51が最強の戦闘機、というのが見て取れるかと。
実際、陸軍航空軍のボス、アーノルドは戦後に
“P-51をもっと早く本格採用しなかったのは明らかに陸軍のミスだった”
と認めており、P-51を極めて高く評価してるのです。

が、P-51の集大成として登場したP-51Dは、部隊配備直後、
いきなり大きなトラブルに見舞われます。
その辺りを次回、見て行きましょう。

でもって、おそらく次回こそが最終回のはず…

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