■北アメリカ人を名乗る会社
ノースアメリカン社は世界最大の自動車メーカーの
ゼネラルモーターズ、GMの子会社(持ち株会社)にあたる航空機製造会社だ、
というのは以前にも説明しました。
ただしこの関係は戦後の1948年に解消されるのですが、
そこまではこの記事では考えなくて大丈夫。
とはいえ、せっかくなのでもう少しだけ詳しく、この会社に付いて解説しておきましょう。
ただし、この辺りはちょっとややこしい話が絡んでくるため、
キチンと理解するには1920年代後半から
1930年代にかけての、アメリカの航空業界事情を少し知る必要があります。
もっとも、この点に関しては、以下の三点に全ては集約されちゃうんですが。
1927年5月 リンドバーク、ニューヨークからパリまで無着陸単独飛行に成功
アメリカ中が航空ブームに染まる
1929年10月 ニューヨークで株式大暴落。世界恐慌始まる
1934年6月 航空郵便汚職事件の結果、1934年式航空郵便法(The
Air Mail Act of 1934)成立
とりあえずこの辺りを、ざって見て行きましょうかね。
1927年5月のニューヨーク〜パリ間の単独飛行が引き起こした社会的な現象は、
日本人にとって、あるいは現代のアメリカ人にとっても、
やや理解しにくいものかもしれません。
リンドバーグが写真の機体、スピリット オブ セントルイスでこれを成し遂げた時、
アメリカ中が航空ブームに沸くことになりました。
ついでながら以前も書きましたが、リンドバークの飛行は
あくまでニューヨークからパリへの初飛行です。
単に大西洋の初横断飛行ならイギリス空軍が1919年6月に
ヴィッカースのヴィミー機を使ってカナダのニューファンドランド島から
アイルランドまでの飛行に成功してます。
(着陸で事故ったし距離は短いし単独飛行でもないが)。
25000ドルと当時としてはかなりの金額の懸賞金がかかっていたニューヨーク〜パリ間の飛行には
多くの有名な飛行家が挑んでおり、そして失敗していました。
ところが、そんな状況の中で田舎で郵便飛行パイロットをやっていた無名の青年、
リンドバーグが突然、という感じで、その横断飛行に成功してしまいます。
その後に起きた熱狂は、現代からではちょっと想像しづらいほどのものだったようです。
さらに彼は頼まれもしないのに(笑)より困難な単独飛行でこれを成功させてしまったため、
そのニュースはアメリカ中に大きな感動を引き起こし、その反響は
ちょっと想像を絶するほどのものがありました。
(賞金の規定に単独飛行に関する要求は無かった。ただし別に冒険野郎だったのではなく、
重量を減らして燃費を稼いだのと、彼の人間嫌いな性格による)
そもそもリンドバークは個人の資格で賞金目的で飛んでるのですが、
横断飛行に成功後はアメリカ中が熱狂に包まれてしまい、
パリではアメリカ大使館の保護下に置かれ、公人に近い扱いを受けてます。
さらにフランスからの帰国時はほとんど国賓扱いで、
海軍の巡洋艦USSメンフィスでアメリカまで送って来られ、
さらにそのままワシントンD.C.に入って時のクリーブランド大統領に面会してます。
直後にワシントンD.C.で行われた記念式典には25万人が参加し、
さらにこの日までに全米から30万通を超える手紙が集まってしまったため、
3台のトラックに分けてリンド―バーグまで届ける騒ぎになってました。
その次に訪れたニューヨークでも同じような事態が待ってました。
リンドバーグの来訪日に合わせ、
現地の金融街、主要な企業、さらに学校まで休みにしてしまったため、
最初にセントラルパークで開かれた式典に30万人が参加、
さらに、後日行われたブルックリン地区のパレードでは
70万人(当時のニューヨーク州の人口の1/3)が
その姿を見るために集まったとされてます。
現在に至るまで、個人でこれだけの観衆を集めてしまった
人物は、他にいないでしょう。
この熱狂は彼がその後、アメリカ中の大都市を訪れるたびに繰り返され、
リンドバーグが各地で航空産業の発展を訴えたこともあり、
アメリカ全土が航空ブームに沸くことになるのです。
この熱狂の影響を受けたのが自動車産業の覇者になりつつあった
ゼネラルモーターズ、すなわちGMでした。
既にライバルのフォードはリンドバーグ現象以前、
1926年から航空産業に参入しつつありました(その成果はイマイチだったが)。
そこにこの航空ブームに押される形で、GM経営陣は
航空産業への参入を決めたと言われてます。
リンドバーク旋風の前年、1926年からフォードが販売を開始していた
3発エンジンの旅客機、トライモーター(Trimotor)。
基本デザインは当時のフォッカーの機体のパクリっぽいし、
機体はユンカースのような波板だし、その上、商業的にも成功とは言い難いのですが、
当時の自動車メーカーには次は飛行機だ、という予感があったようです。
この辺り、常に他社の結果が出てから冷静に市場を支配に行くGMの辣腕経営者、
スローンは当初、その参入を迷っていたのですが、リンドバークによる
航空大ブームによってその決意をしたようです。
結果的には、かなりこちらも大失敗だったのですが(涙)、
それでも第二次大戦の勃発により、最終的に大儲けはしています。
とはいえGMは航空産業には完全に無縁でしたから、
すでにある会社の買収を目指すことにしました。
そこで一定量の株式を購入して資本参加、その子会社としたのが、
第一次大戦の軍用機設計で名を売った設計者、
フォッカーがアメリカに設立した会社
フォッカー航空機アメリカ(Fokker
Aircraft Corp of America
)で、
これが1929年5月ごろの事でした。
同年末、すなわち大恐慌開始直後ににアメリカに移民して来る、
後のムスタングの設計担当者、シュムードが
最初に在籍したのもこの会社ですね。
とりあえず、この会社が後のノースアメリカン社の核となって行きます。
でもって、この後の展開については、そもそも資料がほとんどない上に、
残ってる資料でもかなり内容に食い違いがあるので、
一部推測である、というのをご了承いただいた上で、
航空機メーカーであるノースアメリカン社の成立を見て置きましょう。
まず、フォッカー航空機アメリカ買収直後、1929年の10月に
世界恐慌が発生してしまい、これによってアメリカにおける
航空機産業は一気にその仕事が激減する事になりました。
この辺りはGMにとっても大誤算だったと思われます。
フォッカーも経営が危うくなったのか、1930年5月にGMに完全買収され、
GM社内にに新たに設立された部局、
ゼネラル・アヴィエーション社(General
aviation
Corporation)として組み込まれます。
この辺り、ちょっとややこしいのですが名前の上では会社、Corporationとなってますが
別会社では無く、社内の部局(Division)であったのは間違い無いようです。
ただしその後もフォッカーのブランドは維持されて、
機体は全てフォッカーの名で製造され続けました。
余談ですが、ゼネラル モーターズの航空機会社だから
ゼネラル アヴィエーション社なんですが、General
aviation
は民間一般航空、
という意味もあるので民間一般航空社、という妙な命名にもなってます…。
それもあってか、後に統合でノースアメリカン社に名前を変えられてしまうんですが。
さらに余談ながら民間定期航空(JALとかANAの航空便など)以外の民間航空機、
すなわち個人や一般会社所有の航空機が民間一般航空(General
aviation)となります。
これをカタカナ英語でゼネラル アヴィエーション、
あるいは省略してゼネアビ、とか言う人を見るたび、
別に普通の用語なのですから日本語を使ってはいかが、と思っております(笑)。
ところが、ゼネラル・アヴィエーション社の不運はまだ続くのです。
その完全買収から約1年後、1931年4月に同社の航空機が空中分解で墜落、
これに巻き込まれて当時有名人だったアメリカンフットボールチームの監督が事故死してしまいます。
このため、マスコミからフォッカーの機体に非難がなされ、
一気にその評価が落ちてしまい、さらなる経営危機に追い込まれる事になりました。
このため、会社としてはフォッカーのブランドを完全に廃止、
以後はゼネラル アヴィエーション社の名を前面に出して航空機開発を続けるものの、
大恐慌に墜落事故の追い打ちがかかり、
もはや民間航空からは完全に仕事が来なくなってしまいます。
かろうじて陸軍の偵察機、YO-27を少数受注して会社は存続するものの、
しばらく、じり貧の展開が続く事になるのです。
ところが、その後1933年になると、突然という感じでGMは再び、
航空産業への関与を強め、いくつかの航空会社を買収し始めます。
この辺りの理由はよくわかりませぬ。
で、その買収した中に持ち株航空会社であったノースアメリカン社が含まれていたのです。
持ち株航空会社、というのは複数の航空機関係の会社を子会社として支配する形態です。
ここで傘下に航空機製造会社と、航空会社を併せ持ってれば、製造会社で造った機体は
全て同じ子会社の航空会社に売って、そこで運用させれば売れ残りは無くなります。
これなら経営も大安心、という事で不振にあえいでいたゼネラル アヴィエーション社は
1933年に速攻でノ―スアメリカン社の子会社とされました。
ところが、ここでもGMは運が無く(笑)、その直後に
1934年式航空郵便法(The
Air Mail Act of
1934)が成立してしまいます。
この法律は航空便の運営会社と、航空機製造会社が完全に分離独立する事を定めており、
この結果、上で見たような持ち株式会社は成立できなったのです。
自分のとこで機体を作って、自分のとこで買って運用、はダメになってしまったわけです。
ちなみにボーイングがユナイテッド航空と分離して、
完全に独立した航空機製造会社となったのもこの法律がキッカケです。
ついでに航空郵便法、となってますが実際は民間航空全般を対象とした法律でした。
名前が変なのは1930年から始まった
航空郵便汚職事件(Air
Mail
scandal)への対処として制定された法律だからです。
事件に対する対策として、公平な航空機の選定、購入がなされるように、
持ち株航空会社が禁止されたとされます。
ただし、この事件に詳しく突っ込んでると終わらなくなるので、とりあえず、
これによって航空会社と航空機メーカーは分離したのだ、とだけ理解してください。
さて、踏んだり蹴ったりだったのは親会社のGMですが、
とりあえず、潔く持ち株航空会社の運用はあきらめ、
ゼネラル・アビエーション部局をノースアメリカン社に吸収合併させる形で、
1935年1月から純粋に航空機メーカーとして再出発させてます。
この段階で、社内部局では無く、独立した持ち株式の子会社としたようです。
この時、フォッカー アメリカ社から引き続きゼネラル・アヴィエーション部局に
在籍し続けていた多くの技術者がそのままノースアメリカンに移籍するのですが、
その中に後のムスタング設計責任者、シュムードも含まれていたわけです。
ただし、彼の場合、ひと悶着あるんですが、それはまた後で。
この1935年1月1日に設立された新たなノースアメリカン社、
すなわちGMの子会社であり、航空機製造会社であるノースアメリカン社が、
以後、我々が知ってるノースアメリカン社となるわけですね。
とりあえず、それ以前にもすでに会社としては存在したのですが
(1928年設立)その時期は、事実上全く別の会社ですから、
この時期の事は、無視していいでしょう。
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