■それはいつか
せっかくなので、ここで少し脱線。
そんなわけで実戦からの戦訓による防弾装備の実施を見てきました。
が、これらはいつの、そして誰の戦訓なのか。
少なくとも1940年7月に始まる英国の戦い、バトル オブ ブリテンの段階で
イギリス側の戦闘機はほとんどが既に防弾設備を持ってましたから、それ以前の戦闘経験からです。
それどころか1940年4月、つまりドイツ軍がフランスと低地諸国にワーっと攻め込む前の段階、
例のアメリカ戦闘機の購入が可能になった直後には、
既にイギリスがアメリカの航空機メーカー、ベル社に防弾設備の追加を要求してます。
つまり、グデーリアン大暴れの西方電撃戦よりもさらに前の戦訓なのは間違いない事になります。
ちなみにドイツ側の戦闘機で、最初に本格的な防弾装甲を持った
Me109E-4の登場が1940年の春でしたから、ドイツ側も西方電撃戦の前に、
すでにその戦訓を得ていたことになります。
じゃあスペイン内戦の戦訓か、というとそれは早すぎで、それならエンジン出力をアップした
Me-109Eの最初の型、E-1から搭載されていて不思議はありません。
よってこちらの戦訓もイギリスとほぼ同時に得られたもの、と考えるべきでしょう。
とりあえずフランスと低地諸国相手の西方電撃戦の直前、
1940年4月にドイツはノルウェーに攻め込んでおり、
ここで初めてイギリス空軍と本格的な航空戦を開始しました。
それでもアメリカの航空機メーカーに4月の段階で正式な文章で防弾装備を
要求していた事を考えると、時間的に間に合いません。
……ここで、え?と思ったあたなは私の心の友です。
ノルウェー戦以前にドイツ空軍とイギリス空軍が本格的な空中戦なんてやってたか?
ええ、やってません(笑)。
はい、となると答えは一つ、この戦訓をもたらしたのは、
最初のポーランド戦と、ポーランド人パイロットしか考えられませぬ。
第二次大戦の開戦となったポーランド戦
(この段階でソ連とドイツはまだマブダチだが)、
この戦いにイギリス、フランスは参戦してませんが、多数のポーランド人パイロットが
ドイツ空軍との実戦を経験してました。
(反対側から攻め込んだソ連側空軍との戦いの実態はよくわからないが)
そして敗戦後、彼らの多くが後に祖国を脱出、
イギリス空軍を始め、連合国側に身を投じていたのはよく知られてます。
おそらく彼らが、この戦訓を連合国にもたらした、と考えるのが最も合理的でしょう。
実は爆撃機が護衛戦闘機無しで飛んでゆくと、敵の戦闘機にエライ目にあわされる、
という戦訓が最初に得られたのもこのポーランドの戦いでした。
これは後のアメリカ陸軍の戦略爆撃推進者(つまりボンバーマフィア)たちが認めてます。
まあ、この教訓をアメリカは当初、全く生かせないで悲惨な事になるんですが…
この辺り、第二次大戦の開幕戦となった1939年9月のポーランド戦は速攻で終わって、
空中戦もドイツ側の一方的な勝利に終わった、という印象が強いのですが、
実は世界の航空戦の歴史の中で、意外に大きな変換点だった可能性が高いのです。
少なくとも第二次大戦における航空戦において、ポーランド戦と、
そして後に連合国に身を投じたポーランド人パイロットたちの果たした役割は、
従来考えられていた以上に、大きなものがあったように思われます。
ちなみにほぼ同時期、日本は日本で、対中国戦、そしてノモンハンの戦いで、
ほぼ同じ戦訓を独自に学びつつありました。
あったんですけどねえ…。
情報は集めるより、その意味を理解して利用する方がはるかに難しい、
というのはボイドも指摘してるところですが、まさにその通りなんでしょうね…。
■Photo
credit: U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH
97485
ちなみに、この防弾設備の祝福を受けたのは、陸軍だけでは無く、アメリカ海軍もでした。
写真は開戦前、1941年10月に撮影されたサラトガのVF-3所属のF4F-3。
写真のように既に操縦席前には防弾ガラスが付いており、
パイロットの背後にも背もたれ式の防弾板らしいものが見えてますね。
さらにF4F-3には開戦の段階で自動漏洩防止燃料タンクも搭載されており
(ただし、まだ全機搭載では無いかも)、
アメリカ海軍も、一定の防弾設備を準備して大戦に突入できたのでした。
ただし、F4F-3の防弾設備は謎が多く、1940年末から配備が始まった段階で
既にこの防弾設備があったのか、それともスピットファイアのように
後付けだったのかはっきりしません。
手元にある写真を見る限り、量産型のF4F-3型で防弾ガラスが無い機体は見つからないのですが、
そもそも初期に空母USSレンジャー&ワスプに配備された機体は写真があまり残ってないようなのです。
よって、この辺りはどうもよく判りません。
特に初期の機体は光学式照準器ではなく、ガラスをぶち破って外に飛び出してる
望遠鏡式照準だったはずで、それで防弾にできたのか、よく判らんのです。
どうも生産途中から光学式照準器と一緒に追加されたらしい、
が正解のような気はするんんですが。
真珠湾直前に生産が開始された次のF4F-4型は
間違いなく最初から防弾装備を積んでたんですけどね。
ついでに、この機体に積まれた自動漏洩防止燃料タンクに関しては、
当サイトではすでにおなじみ、空母USSヨークタウン所属の戦闘機部隊、
VF-42を予想外のトラブルに巻き込む事になりました。
(本来はUSSレンジャーの戦闘機部隊で、1941年12月には地上基地に展開してたのだが、
最新装備機を持った部隊だったため出航直前のUSSヨークタウンに捕まった)
当時、日本の真珠湾攻撃を受けて、急遽パナマ運河を通過して太平洋に出たUSSヨークタウンから
警戒飛行に出撃したVF-42の機体は、いきなり原因不明のトラブルに見舞われました。
1942年1月7日、F4F-3の一機が離艦直後にエンジンが停止、不時着を強いられ、
翌8日も、もう一機が全く同じようなエンジン停止で不時着水に追い込まれるのです。
続いて12日、14日にも同じようなF4Fの事故があり、その原因は不明のまま、
VF-42は2月のマーシャル、ギルバート諸島空襲、
そして3月のラエ、サラモア空襲の任務に就くことになりました。
(ちなみに最初の2名のパイロットは救助された記録があるが、それ以外の安否は不明)
最終的にこの問題が解決したのは珊瑚海海戦直前、4月下旬の事で、
漏洩防止タンクに使われたゴムがなぜか、航空燃料にふれて溶解してしまい、
この破片が気化器につながる燃料パイプを塞いでしまった結果、
エンジン停止を引き起こしてたのでした。
開戦当初、緊急出動したUSSヨークタウンは既定の航空燃料を積めず、
やや古いものを使っていたとされ、これがタンク内のゴムを劣化させた、と判断されたようです。
USSヨークタウンは海戦直前の1942年4月20日から補給のため、
珊瑚海の南東にあるトンガタブに寄港してるのですが、これは単に燃料補給だけでなく、
劣化したゴムを補強するタンク用の添加剤(Fuel
tnak
liner)を受け取るためでもあったのでした。
これによって、VF-42はようやく安心して珊瑚海海戦に臨む事になります。
同様に、陸軍の戦闘機も1940年から太平洋戦争開戦まで、
防弾装甲、そして自動漏洩防止燃料タンクを次々に装備する改良を受けるのです。
この時期に当時生産が始まっていた陸軍の主力戦闘機、P-38、P-39、
そしてP-40の開発生産が揃って1940年に混乱を見せてるのは、
この防弾装備の搭載改良を行ってたから、という面もあります。
この点、1940年の5月になってから正式発注をイギリスから受けたムスタングは、
最初からこれらの装備が要求されており、このため、
追加装備の混乱を避けられたのは、ある意味幸運だったと思われます。
といった感じで、イギリスからの情報で一気に進化を遂げる事になった
アメリカの戦闘機たちですが、次回はその購入に関する問題について、
見て行きましょう。
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