■ブラジルから来た男

それはどこか妙な男だったと思われる。

1929年、すでに世界最大の自動車メーカーになりつつあったGM、
すなわちゼネラル モーターズのブラジル営業所が一人のドイツ系技術者を雇っていた。
オーストリアの国籍をもつ30歳の青年は飛行機が造りたくて、
ブラジルまで渡って来た、祖国に妻と子も置いてきた、と言う。

ブラジルで飛行機だって?と周囲が驚くと、
敗戦国として航空機製造が禁じられた彼の祖国、
オーストリア、そしてドイツよりは可能性があるんだ、とその男は言う。

当時、既に不景気のどん底にあった祖国に見切りをつけ、
ブラジルで歯科医として成功していた兄二人を頼って来たらしいが、
残念ながらこの地でも航空機の夢破れ、生活のためにGMに職を求めたらしい。

ちなみに父親もまた歯科医で、そんな歯医者一家の中でただ一人、
飛行機設計家を夢見てブラジルまで渡って来た青年技術者は、
どこか不思議な存在だったろう。

もっとも正確には自称技術者というべきかもしれない。
彼は大学も技術専門学校も出ておらず、
必要な知識は全て図書館と市販の書籍から学んだという。

ブラジルに来る前はオーストリアやドイツの小さな町工場などで
工業用の各種機材、小型エンジンなどの設計開発をやっていたらしいが
技術者の実績と呼べるほどのものでは無かったと思われる。
かつては自作の小型飛行機も設計したらしいが、完成には至らなかったらしい。
どうも町工場の気の利いた技術屋というところがせいぜいだったろう。

ところが、その腕は確かだった。
現地ブラジルのゼネラル・モーターズの営業所では
彼が設計した様々な整備用の機械で
その仕事が大きく改善され、青年はその部門で重要な人材になっていた。
やがて現地ゼネラル・モータズ幹部の古株の一人が
彼の才能をここで飼い殺しにするのは惜しいと考え始める。

当時、1929年の本国アメリカでは大恐慌の足音が刻々と忍び寄っていた。
そして同時に1927年のリンドバーグの大西洋無着陸単独飛行の成功もあって、
空前の航空ブームが起こりつつあった。
世界最大の自動車メーカーになりつつあった、
GM社、すなわちゼネラル・モーターズも、その流れの中にあったのだ。
ライバルのフォードも航空産業に興味を示してるのに、負けるわけにはいかない。

そこで稀代の辣腕経営者、スローン率いるGM経営陣は
第一次大戦で名を馳せた名設計者、フォッカーが
アメリカに設立した現地会社に対し出資を決定、
これにより、その巨大企業の末端に連なる航空機製造会社が誕生する事になる。
が、アメリカにはヨーロッパほど航空機の技術者が存在せず、
有能な人材なら学歴、職歴を問わず需要があったらしい。

ここでついに青年に声がかかる。
飛行機の設計がやりたいなら本国アメリカに行ってみないか?
ブラジルでこのまま埋もれて行くのか、と悩んでいた彼は二つ返事でアメリカへの移民と、
職場の変更を受け入れアメリカへの移民を決意する。
アメリカ中が10月の株価暴落の大混乱のショックの中にまだあった1929年末の事だ。
間もなく彼は大恐慌で荒廃したウォール街を間近に控える
ニューヨークの港に、移民として上陸を果たす事になる。

後に親会社GMの買収戦略により、
ノースアメリカンと名を変える事になる航空会社に職を求め、
ブラジルからやって来た青年の名はエドガー・シュムード(Edgar Schmued)。
後にムスタングと呼ばれる美しい戦闘機設計の中心人物となる男である。
世界の空が再び戦いに飲まれ、彼の才能が必要になるまであと10年。

ここから奇跡のような偶然と、必然にしか見えない運命によってイギリス、アメリカ、
そしてドイツ系の人材を巻き込んで生まれる戦闘機の物語の第一歩が始まる。
学歴も経験も無く、30歳近くになるまで職を転転としていたオーストリア国籍の無名の青年、、
そしてまだ英会話能力すらも不十分な男、エドガーが
大恐慌直後のアメリカに移民して来たことで全てが動き始めるのだ。

世界はきっと変わるだろう。


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